松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

友人だと思っていたのにすぐに不和になるのは何故か、ネットでは?

言葉を用いて対話している以上、ふだんわたしたちがコミュニケート(理解しあって)していると思っているのは単なる思い過ごしでないのではないか。なぜって相手がその言葉をどう理解したかは推測でしかないのだから。
日常生活では言葉の意味より文の意味が大事で、文の意味は現場で著しく制限されている。食事中には「おしょうゆ取って」という趣旨が発話される可能性はとても高く、どんな語彙がそこに使われようとそう理解しておけば良いといったことがある。
ところが抽象的な会話、国家とか政治とかイデオロギーとかプロパガンダとか倫理とか戦争責任とか実存とかいう話だと、ここに示した数個の言葉をどのように配置して、世界を理科しているかは人によって違う。食卓の例えで言うと、日本料理なのかイタリア料理なのか中華かエスニックか、黄色く卵焼きかもしれないかのようにみえるものでも、それによって全く違う。それと同じことが抽象的な会話では起こってしまう。任意の二人が対話しようとしても。問題はそうした事態(当たり前の事態)が起こったので相手とのコミュニケートが不全であるということに、人はなかなか気づけないということにある。


任意の二人が対話する機会など、ネット以外ではほとんどないのだ。イデオロギーという言葉をどんな文脈で知ったか、友人同士だと同じ(ような)文脈で理解していることが多い。それに、こいつはこういう奴だと分かりながらなお付き合っているので、「こういう奴だ」=相手の世界観という枠組を予め考慮に入れて、相手の発言を理解する。ところがネットだとそういう要素が希薄であり、言葉の使いかたが違う人とは、すぐに不和や論争になってしまう(可能性が高い)。