松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

α.どくろの名前

吉岡秋雄
竹内敏正
海老原博
佐藤鉄太郎

 私は帰還後、吉岡の家族に会いたいと思ったが、明石の疎開先にいたのではサンホセ警備隊の戦友の家族の所在を探すのも容易ではなかった。第三十五軍司令部まで手が廻らなかったのだが、こんど『レイテ戦記』を書くために、軍専属副官綿野得定氏を長門市に訪ねて、名簿を見せてもらった。吉岡秋雄、竹内敏正、海老原博、佐藤鉄太郎の名前をそこに見出して、涙を流した。
 吉岡のほかは、みんな若い二一歳の兵隊で、当時現役にならないくらいだから、丈が低かった。海老原は笑うとやえばの出る可愛い顔をしていた。竹内は頬がふくらんで、少しむっつりした若者だった。佐藤鉄太郎が、終戦後まで山に残っていて、収容所へ会いに来た兵隊である。心の中で何を考えていたかわからないが、上面はみんな真面目で朗らかで、まるで会社に新しく就職したような態度で、軍務にはげんでいた。彼等は病気になると、われわれ中年の兵隊より脆かった。
 名前を見ただけで、涙がとまらなかった。わたしもいまは歳を取って涙もろくなっているが、とにかく二五年前の兵隊の時のことを思い出すと、いつも涙が出て来るのである。あれはとにかく大変な体験だった。生死の境目にいただけに、みんな人間の臓腑をむき出しにしたような暮し方をしていた。そういう中で、あいつはあの時、あんな笑い方をしたとか、こんなことを言ったとか、日常的な生活の細目の記憶が残っていて、それを思い出すと涙が出てくるのである。
 別に深い交際でもないのに、あの故郷を何千里も離れた異郷の町で、野で、林の中で、同僚がある瞬間とった姿勢とか表情が、まるで私の一部となってしまったかのように、思い出されて来る。そしてその人がいまは亡いということは、なにか重大な意味を持っているらしく、思い出すだけで、まるで実在しているかのように、働きかけて来る。(略)
(p17-18 大岡昇平ミンドロ島ふたたび』中公文庫 ISBN:4122003377