松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

仏教2

 そこで分かりやすいと評判の宮元啓一氏という学者によると、

(3) 仏教は(少なくとも釈迦の教えは)第一義的には厭世を促す教えである。
(4) 仏教の最終の目的は、そして釈迦その人が到達したところは、生存欲を断つこと(=生のニヒリズム)である。そこに到達すればこの世に生きることに何の意味も見いださず、何の価値判断を下すこともない。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto1.html
大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』

 ということのようだ。
これは興味深い。学校や職場ではある(明確なあるいはあいまいな)目標が存在しそれに向けて努力することが要請される。しかしながらそのような価値観を受け入れ努力することは愚かなことだとわたしには思える。職場の価値観がいやなら、愛国とか世界平和とか「理」(朱子学でいう)とかの価値観はどうなのか?もちろん職場の価値観よりはずっとましだが。ちょっと保留が必要な気がする。

 すなわち、輪廻の究極の原因は今まで欲望であるとされていたが、そうではなく、その欲望を引き起こすさらに根元的なものがまだ奥に控えている、それは、ふつうの人間が自覚すらできず、したがって、ほとんど抑制不能な生存欲であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。
 そして、その根本的な生存欲を、「渇愛」(タンハー、盲目的な生の衝動)とか、「癡」(モーハ、迷妄)とか「無明」(アヴッィジャー、根本的な無知)とかと呼んだのである。自覚できないから癡であり無明であり、抑制できないから渇愛なのである。

      • } 『ブッダが考えたこと ─これが最初の仏教だ』 54ページ

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto5_1.html

 欲望を否定しなければいけないという命令を立てたとすると今度はその命令が逆に(朱子学のリゴリズムのように)わたしたちを抑圧してくる。否定自体が無明に転化するみたいな感じか。
 そこで悪を恐れるな!*1といった意見も出てくる。禁止や倫理自体から自由になる必要がある。
それはそうなのだが、それだけでは足りない。私たちはすでに囚われておりそれから自由になる必要がある。
南無阿弥陀仏。どのようにして? 常に虚数方向に〈死〉を励起することによって。

*1:親鸞:弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。