西田幾太郎と大乗起信論
西田幾太郎の「善の研究」という本を読んだ。薄い本だが日本で一番有名な哲学書である。30年前に買った岩波文庫の紙面がかなり黒く日焼けしてしまっていて読みにくい。そこで青空文庫で読んでみた。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/946.html
ブラウザで小説などましてや哲学など読めるはずがないと思っていたが、字を大きくすればとりあえず読みやすいのである。ふりがなも岩波文庫(S25年版)より多いみたいだ。横幅を画面の半分くらいにして読んだ。
(でそれほど感心しなかった。)
末木剛博という人の『西田幾太郎』と言う本が図書館にあったので借りてみた。(全部は読んでない)
「仏教ならびに儒教との比較」という章が面白かったのでちょっと紹介。(同書p233-251)
「善の研究」は、禅仏教に近いというよりむしろ陽明学に近いというのが結論。
- 西田は漸悟、臨済は頓悟。
- 西田では自己反省による判断が積極的な役割を演ずるが、臨済では反省も判断も虚妄の因として排除される。
- 西田は身体を軽視。
- 西田も親鸞も、絶対者を非超越的な内在的な限定的全体性として把握する。
- 西田には理想への向上の道だけある。大乗起信論には頽落の道もある。
- 大乗起信論の頽落の原理は「無明」。
- 大乗起信論:言語が虚構(仮相)を真実と誤認させ、その結果、種々の悪業を惹起する原因となる。「名字によりて名を尋ね、取著して種々の業を造る。」
- 西田は世俗的な人倫・道徳に積極的な価値を認めるが、起信論はこれを認めない。
- 西田も陽明学も自己肯定的であって、自己否定的要因を含まぬ。
(以上だいたいp248-250より 番号は私が今付けただけ)
こういう話は噂話みたなものでべつにどうこういうほどものではないが。
東アジア全域に仏教ならざる仏教を広めた悪の元凶扱いの大乗起信論ですが*1、上の紹介によれば興味深そうだ。
*1:批判仏教によれば