松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

〈語り得ないもの〉コレクション

西田幾太郎 純粋経験を語る。

純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験そのままの状態をいふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考えのないのみならず、此色、此音は何であるといふ判断すら加はらない前をいふのである。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch1/u2/t1.html

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 こういう矛盾したようなことを西田は四高や学習院や京大の教室で語っていたんです。学生たちは狐につままれながら聞いているんです。西田は学生に通じるかどうかより、きっと自分が納得できるかどうかが大切だったのでしょうね。つまり西田は常に今、ここにあって、現在を哲学しているんです。それを学生たちはまさしく現在の意識として、今ここに起こっている哲学している西田を純粋経験しているんです。ある学生は唸りながら、ある学生は狐につままれながら、ある学生は心中怒りに燃えながら、ある学生は陶酔して快感に酔いしれながら、みんな自分を忘れ果てていたんです。それだけの迫力があったのでしょうね。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch1/u2/t2.html
その感動があって、西田が京大に移る前に一年だけ教鞭をとった学習院の教え子たちが、西田を慕ってたくさん京大に転学したんです。彼らはエリート華族の子弟ですからね。近衛文麿木戸幸一などという後の政界の指導者などもその中に入っていて、そのことが西田の晩年に大きな影響を与えるんです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch1/u1/t1.html

和辻哲郎とWoraufhin

和辻は人間を、ひとと人間(じんかん)=世間との二重性で捉える。
ところで、あるハイデガー論によれば、「存在は、存在者を存在者として規定するもの、存在者がそのつどそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である。」

世間は、ひとをひととして規定するもの、ひとがそのつどそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である。  と言い替えればぴったりはまるように、この二重性は、いわゆる弁証法的なものではなく、woraufhin的なもの なのである。
世間という言葉はあまりに世俗的であるが、和辻のそれはハイデガーの〈光〉であり、「だから行こう、われわれが開かれたものを見るために」といったようなひそやかな神秘主義と昂揚を隠しているものである。(野原)

テロリストの「一種不幸な悲哀感」

朝日(平吾)の主張には、「何故に本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーブな思想」を見て取ることが出来る。このような「一種不幸な悲哀感」に基づく煩悶を、橋川(文三)は「未知というべき感受性」と定義して、昭和維新ナショナリズム社会主義運動、アナーキズム運動を支えた青年たちに共有する心性と捉えた。(中島岳志

また「反日武装戦線」の爆弾闘争においては、その名が示すごとく「反日性=反ナショナル性」が顕著であるように思われていますが、その心性には「未知というべき感受性」が反復されていたのではないかと推量してみたくなりますね。しかしその反復を「凡庸で退屈」と言うべきではない。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20071124/p1