松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『中論』最後の部分メモ

『中論』(ちゅうろん)、正式名称『根本中頌』(こんぽんちゅうじゅ、梵: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、1800年ほど前、龍樹によって書かれた。
ウィキペディアに目次がある。中村元氏によるサンスクリットからの翻訳が、講談社学術文庫『龍樹』に入っている。76頁ほどのものなので長くはない。しかしだいぶ前から読み始めて読み終わらない。あと、23頁さっさと読んでしまおう。


第22章「如来の考察」(全16詩)(「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証)
1.如来五蘊でなく、五蘊と異なるものでもない。
こういう文章ばかり並ぶので「読めない」のだ。ただまあ、お前はお前の身体なのか、そうではないのか?と言われれば一瞬は答えに詰まる。
6〜7.如来というのは自由なものみたいにイメージされる。自由なものは存在の構成要素に執着して取ることなどない。しかし構成要素を執着して取ることがないなら、存在しない。ことになる
14.如来はそれ自体としては空である。


第23章「顛倒した見解の考察」(全25詩)(「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証)
1.貪欲と嫌悪と愚かな迷い、というものが人間の現実なんでしょう。でそれは〈顛倒・てんどう〉による。
「倒錯した現実へのなしくずし感覚の根底にある自然さを、どのように粉砕するのか。」というのが松下昇の言葉だった。似ている。
2.アートマンの存在と非存在とは、いかにしても成立しない。>これが飲み込めない。
8.色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとは、陽炎や夢のような物。
24.実在するもろもろの煩悩が誰かに属しているのなら、それを捨てることができるだろうか?>実在するある煩悩が私を苦しめているから「それを捨てることができるだろうか?」という問いがやってくる。違うのか


第24章「四諦の考察」(全40詩)(「四諦」等の非自立性を帰謬論証)
1.四諦は初期仏教の精髄だよね。龍樹が言うように「一切が空」なら、四諦は成立しなくなる。(と反対者は言う)
5.空を説くことは、仏・法・僧を破壊することだ。(と反対者は言う)
8.ブッダは二種類の真理、世俗諦と第一義諦を説いた。>石飛氏のまとめでは、a.世俗諦=虚妄な法=十二支縁起の順観。b.第一義諦=虚妄ならざる法=十二支縁起の逆観。p73『ブッダと龍樹の論理学』18.どんな縁起でも空だ。それは仮に設けられたものであって、すなわち中道である。
何でも、縁起して起こった。つまりいかなる不空なるものも存在しない。>たぶん、自性を否定することは、「それ」を否定することではない。だから「1」の非難はなりたたない。
40.縁起を見るものは、すなわち苦、集、滅および道を見る。


第25章「涅槃の考察」(全24詩)(「涅槃」の非自立性を帰謬論証)
4.ニルヴァーナは有ではない。
10.有にあらず、無にあらず。


第26章「十二支縁起の考察」(全12詩)(十二支縁起、及びそこへの自説の関わりの説明)十二支縁起(ウィキペでは十二因縁):無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個。
12.これらの、それぞれ前のものの滅することによって、それぞれ後のものが生じない。このようにして、このたんなる苦蘊は完全に滅する。(無明が滅すれば志向作用(行)が滅するなど。逆観)


第27章「誤った見解の考察」(全30詩)(「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括)
3.「過去世において、われはあった」は成立しない。4.前世のわたしと今のわたしは別の五蘊を持つ。6.執着のもととなるもの(五蘊)は消失し、また興起する。
8.前世のわたしは執着のもとと異なったものでもないし、また執着のもとと同一でもない。9.アートマンは以前には存在しないでいま生起したのではない。(日本人が苦手な輪廻の肯定)
13.「過去においてわれはなかった」とか「過去においてわれは有った」とか「われは両者であった」とか「われは両者でなかった」とかいうこの見解は成立しない。
30.まで (終わり)