松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

軍が行ったことなのです。

「中国山西残留の日本兵問題」については次のサイト(urlは目次頁)がきちんと問題点を確認している。当時の資料(電報画像)も5点ありたいへん充実している。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/daiicigun_mokuji.htm
(2007/10月現在、下記に移っているようだ
http://www.tetsusenkai.net/official/e-mail/120917/godzillaswife/

上記を読んでもらえればいいわけだが、わたしがクリップしたところだけ下記に掲げる。

 この原因は、八路軍との戦いに日本軍の戦力を欲した、国民党第二戦区軍の閻錫山と、戦犯逃れの希望を持った、日本第一軍首脳の共謀ともいえるものでした。(詳細は下記) 昭和20年11月以降、閻錫山は、日本の第一軍司令官澄田らい四郎(らい=貝ヘンにつくりが来)中将以下、第114師団長三浦三郎中将他十数名を戦犯容疑者として軟禁し、「第一軍将兵1万人の残留(註・残留して閻錫山の第二戦区軍に加わること)が実現しなければ、
一、戦犯容疑者はもっと増えるであろう。とか、
二、日本軍民10万人(註・主に北支の閻錫山支配下山西省地域の日本軍民のこと)の内地帰還輸送は実現しない」

と宣伝させました。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_3.htm 山西残留の日本兵問題3

 これに対し、山西省の第一軍の異常事態を察知して、昭和21年3月9日に、南京から北京経由で太原に飛来した、当時の支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は、昭和50年9月号の「偕行」登載座談会記事で、「閻錫山の要求に従い、第一軍は閻を支援するために、 特務団(約15000名{ママ}の日本人武装部隊)の編成をすでに発令していた。」 「3月10日、11日の2回にわたり、澄田軍司令官の面前で、軍参謀・各部隊長・それに太原にいる各兵団長らを交えて、連絡会議を開き、(中略) 総軍の命令に反し、第一軍が特務団編成を発令したことにつき、強く難詰しました。」
とあります。(註・総軍とは支那派遣軍のこと。大本営支那派遣軍→北支那方面軍→第一軍)
 上記の証言によっても、「総軍の命令に反し」て第一軍首脳が、勝手に「発令」したことは、すでに証明されています。そして「発令」である以上、軍が行ったことなのです。(同上)

 この問題は五六年に国会で取り上げられ、残留工作にかかわったとされる支那派遣軍第一軍の澄田●(らい)四郎・元司令官らが参考人招致された。しかし、澄田・元司令官は「各部隊を回って全員帰還するように説明した」などと証言。厚生省は「残留兵は軍の説得に応じず自分の意志で残った」と結論付けた。(●は「貝」ヘンにつくりが「来」)
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_1.htm
山西残留の日本兵問題1

因みに部下が捕虜となった時点において、首謀者の第一軍司令官澄田中将はといえば、太原陥落直前の昭和24年2月に、飛行機で太原を脱出して、上海経由で帰国しています。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_4.htm
山西残留の日本兵問題4

 山西残留が第一軍命令であったとなると、日本国はポツダム宣言に違反したことになるわけです。国の体面と、元第一軍司令官澄田中将および元第一軍参謀長山岡少将の、自己の不行跡の責任逃れと保身の利害が一致したためか、彼ら、軍首脳の陳述を鵜呑みにして事実に反した認定がなされたのです。
この正反対の陳述を質す、臼井委員の問いに対して、政府委員の田邊委員(厚生省引揚援護局長)は、「私どもの方針と致しましては、この前にも申し上げましたが、軍の首脳が第一線の将兵に対して残留しろということは、われわれとしてはあり得ないことであるというように、考えておるわけであります。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_5.htm
山西残留の日本兵問題5

このサイトは右翼系の方がやっておられるみたいだが、ずいぶんまともな意見も多い!