松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# 村田 『野原さんこんにちは。村田です。野原さんの笙野『金毘羅』の感想を拝見いたしました。

メールで誘われてようやくブログにお伺いしましたが(気が向いたときしか見に来ないので気づかずにいてすいません)、すでにみなさんのコメントもかなり蓄積されていらっしゃるので、ビックリしました。非常にみなさん熱心でいらっしゃいますね。私はにわかに笙野を読んで、自分の理解できる文脈に強引に沿わせて、ちょこっと思ったことを書いたにすぎないので、あまり言うべきこともそんなにないのですが、私の文章を読んでいただいたり言及していただいたりしているので(Panzaさんはじめまして。拙文お読みいただいてどうもありがとうございます。……他の人のブログでお礼を言うのもなんですが)、応答として少し印象などをコメントさせてもらいたいと思います。

笙野の独創的で、その饒舌をさらにかき立てる役割を果たしていると思われる「ふふんふふーん」などの多種多様な感嘆詞(「擬音的感嘆詞」というのはどうでしょう?)についての考察と問題提起、面白く読みました。これはものすごく大事なところだと私も思います。野原さんの引用している作品の冒頭では、とくにこの感嘆詞の効果は目覚ましいですね。Panzaさんが上手く説明されているように、まず自らツッコミを入れることで語り手=主人公を相対化したり複数にしたりする力があるように思います。それがまた金比羅の「習合」的性格(AであったりBであったりする)をあらわすことにもなっていると思います。そして何より、マンガのオノマトペにも通じるような、ネット言葉における文字だけが過剰に自立していくような、この雑多で躍動感のある言葉の回転力が、面白いと思えるか、爽快感を感じるか、これが好きかどうか、そこがポイントではないでしょうか。

だから、野原さんがこれらの感嘆詞に強く惹かれて問題にされるのには、共感します。私も何か言及しようと思っていたのですが、先月書いた文章では量と内容の制約があって扱えませんでした。まあ力量がないのですね。あと、野原さんの議論の最後のほうの「『金毘羅』=『高慢』であるべきなのに、なぜ「科学の子」にもこの感嘆詞がつけられるのか。神を信じぬ「高慢」さがあるからか。だとするなら、『金毘羅』=「高慢」とするのは分かりにくいのでは」というところは、この感嘆詞をちょっと一つの意味に還元しすぎではないか、と危惧しつつも、難しい問題に突入していらっしゃるなあ、と感心しました(すいません偉そうですね)。

確かに、笙野の書き方は混乱を呼ぶように書いている節があると思います。でも、私が一番素晴らしいと思うのは、笙野がこの混乱をただ混乱のままに放置しないところです。「主人公=私」が「金毘羅」であり「人間」であることを、最後の最後まで、実に細やかな手続きで描きわけているからです。これは当然平面的な2項対立としてではありません。「人間であった」こと「金毘羅になった」こと「いまや金毘羅である」こと「しかし今でも人間である」ことを、それぞれの位相の違い、時間の遡及的な構造などを踏まえながら、複数的なアイデンティティとして作り上げている、そこが私にはとりわけスゴイと思えたのです。だから「金毘羅」が「高慢」であるかないかについて「矛盾」が現れるのは、こちらの複数のアイデンティティから見れば、あまり問題にはならないのではないでしょうか。たとえば主人公の家人は、「科学」と「神」をどちらも信仰し、「インテリ」かつ「土俗」として描かれています。主人公はそれを対立・矛盾としてとらえる不幸からようやく脱して、どちらをもそなえていると自覚するようになる、というのが作品の主旨でもあるのではないでしょうか。だから作品で炸裂する感嘆詞は、「高慢」さをあらわすだけでなく、その人間的な区分を乗り越える「喜びの歌」としても、感じ取られるように私には思われます。

なんだかまとめすぎのようですが、野原さんや他の方々のコメントを読んで、こんなことを考えました。あとご紹介いただいた『徹底抗戦!文士の森』もすでに読んでいます。まえの『ドンキホーテの「論争」』も読みました。感想は、笙野によってぶった切られる「明治政府ちゃん」(国家の枠組みでしか物事を見られない似非科学主義だそうです。詳しくは同書でどうぞ)たちって、笙野の批判はまずまず的を射ていると思いますが、でも私は結構好きです。』 (2005/10/04 01:04)