松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

うねり〜新しい感性とは

柄谷行人が案外多く普遍宗教(キリスト教・仏教)に言及してきたこと。その普遍宗教が部族を制圧し国家形成するためにあったと言っていること。ワタシはそれは巨視的というより粗雑すぎでほぼ間違いではないかよ、と先週書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Panza/20080324/p1

ドイツ・イデオロギー』が内面がないというところから発しているから、(略)
その前にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』を私は読んだからです。それで人間には内面があり、祈りがあると考えられるようになっていた。
笙野頼子*1

id:Panzaさんには悪いが*2このふたつの論点に関しては、わたしは批判者よりも批判されているもの(柄谷仏教論とドイツイデオロギー)にシンパシーを持つ。
仏教とは何か?古代日本のそれは鎮護国家という四字におおむね収束するものであった。中世日本のそれは南無阿弥陀仏という世界の否定に収束する。*3 
国家と放棄(すぐ捨てよ)という二方向のベクトルに引き裂かれつつ社寺や在家共同体はダイナミズムを孕み続けた。ただ明治以降に欧米渡来の宗教概念にあわせて再構築された「仏教」というものとかなりおおきな落差があったはずだと思う。
で何が言いたいのか。
明治の初年に廃仏棄釈があり、神道と仏教の分離が暴力的に遂行された。しかし(島崎藤村も皮肉にも指摘せざるを得なかったように)神道と仏教の分離前にこそ、民族の魂は住まいしていたのではないか。21世紀になって神仏習合に新たに熱意ある眼差しが向けられ、笙野の『金比羅』がその象徴となっている。
このような流れと柄谷仏教論は一見反する。しかし明治以降の近代宗教(ヨーロッパでは隠れていた国家への随従と言う契機*4が日本では肥大しいまだ清算されていない)への批判と言う点では一致できる。とわたしには思える。

とここまで書いて中断していた。ドイツイデオロギー批判なんて大それた論点にかかわるのは体力がいる。*5

 人間の思考にーー対象的真理が到来するかどうかーーという問題は、〈ただ〉理論の問題ではなく、実践的な問題である。
フォイエルバッハ・テーゼ 2 岩波文庫・新編輯版 p233)

 デモに行ったりそのための会議を開くことが価値であり、ひとりでぐずぐず小説を書いたりするのは価値ではないとこの文章はいっているのであろうか。かならずしもそうではない。

 フォイエルバッハは抽象的な思考で満足せず、直観を欲する。しかし彼は感性を、実践的な、人間的・感性的な活動として捉えることをしない。
フォイエルバッハ・テーゼ 5 岩波文庫・新編輯版 p236)

フォイエルバッハ(あるいは笙野頼子)が新しい感性に満ちた本を書いた場合、それは実践的な感性的な活動として捉えることができる、とこの文章をよむことは十分できる。

で、笙野頼子と反ネオリベ派との連帯は、新しい実践的活動というものを予感させている。と言ってみたい。笙野頼子のあられもない怒りは(日本においては)小便臭いマルチチュード派より力強い。

*1:京大新聞 2415号p6 

*2:というのも変だが

*3:花はいろ月はひかりとながむれば こころはものを思はざりけり 一遍

*4:ローマ教皇権からの相互独立といった流れがあったため顕在化しない。日本ではすべての道徳や祈りは国家=神道(自然への畏敬)に収束する

*5:といって権利を獲得もせずに他のことを書き散らしていてもしかたない。