松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

桃寿さんの詩「遺書を書こう」を読んでみよう。

http://cute.cd/moonly/loli-isyo.html(閉鎖)
http://www.rktlb.com/momoju/
   不安定で ボロボロで すぐに崩れてしまいそうな
   脆くて 駄目で 情けない グラグラのあたしだから
と詩は始まる。実際に(追いつめられて)遺書を書くことと「遺書を書こう」という文章を書くこととの間には対極的とも言うべき距離感がある。投身自殺で叩きつけられた無惨な死体とそれを無表情に観察し記録する者との距離にも等しい距離が。ということはつまり、「脆くて 駄目で 情けない」あたしの存在とそう書いている<あたし>の間にも無限に近い距離があるということだ。だがしかし、「脆くて 駄目で 情けない」と日記に書きつけるわたしはいつも書く私ではなく、書かれる私にだけ同一化している。桃寿さんの詩がありきたりのナルシズムを免れている理由は、この勘違いを決してしない点にある。ただ、しないのではなく<できなかった>のだ、と思う、彼女の場合。

   まず 財産はないので その辺はどうでもいいです
   それから 写真や日記なんかは 気持ち悪いので焼いてください
彼女は冷静に的確に列挙する。
   恋人には ありがとう、って言って 他の人には さようなら、って
   面倒だけど 伝えて下さい
「面倒だけど」というのは最後の言葉を媒介してくれる伝達者に向けられている。自殺者としたら異様な平常心だ。
   一通り書き終えて 署名して 封をする
公務員にしたいぐらいしっかりしている。
書けば書くほど、書かれたものは<脆くて 駄目で 情けないあたし>からは乖離していくのだ。だから彼女は遺書を破る。そして、
   あたしは窓から飛び降りた
   「―――――。」
彼女は閉塞を拒否し行為を選ぶ。
だが、そこにも錯誤しかなかった(とたぶん彼女は書いている)。