松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

戦後詩についてのメモ

詩は読まないしだから詩について考える必要もなかった。
ちょっときっかけがあって、瀬尾育生の「われわれ自身である寓意」(isbn:4783715432)という本を図書館で借りてきた。返す前に少しだけメモしておこう。


日本の戦後詩は、完結し整備された人体 を前提としてきた。なんてことを彼は言う。同書P186*1

戦後の第一の世代の詩を成り立たせたものは、頭脳の上方から流れ下ってきて人体の輪郭にそって流れる「理念」であり、
50年代の詩人たち では 感受性と感覚器官が詩の領土となり
60年代の詩人たち では 触覚と体感が分布する体表

どの詩にも人体模型が疑われないままに存在し、世界がその人体をめぐって流れるときの世界感情が、その詩の世界を駆動してきた。 

ふーん。なるほど。


菅谷規矩雄は「ナショナリズムを基底としてナチズムを超出する抵抗の思想は可能か?」という問をひめて、ベン、ユンガー、ハイデッガーを読んだ。興味深い。日本でいえば、北一輝大川周明あるいは平田篤胤、吉田松蔭とかだろうか。

ハイデガーが、「言葉が語る」と根源を語りつづけたのに対し、菅谷は「未だ言葉を持たぬ人間の、発語にむかって身震いしているフュジス」といったイメージを対置しようとした。


///さあ、はっきりおっしゃいな、いくらであたしを買いたいのか。ためらうことないじゃないの、愛してるんならさ。べつに気どって売りおしんだりはしないわよ。///(「神聖家族」)
はすっぱな文体だが、あたし=「根源」への愛 を一度は率直に語ってみよと命じている。


人間の現実世界における存在の仕方は、「おしゃべり」への埋没という頽落状態だ、とハイデガーは言う。これは松下をはじめとする「もうひとつの世界は可能だ」派にも近しい感覚である。
「喩」とは、言語の拡張的な用法がある根源の意味へと遡行可能であるということを意味する概念にほかなならない、とハイデガーは考えた。p204
「菅谷も例えばその韻律論において、現にわれわれの発語を貫くリズムのなかに〈発生の本質が現存をつらぬく〉ようにしてあらわれている根源を把捉しうると考えていたからだ。」
それに対して瀬尾は、デカダンスである自己を肯定する。

 だが、自分が言語的なデカダンスの中にあるとわれわれがいうとき、それはとりもなおさずこの頽落が遡行不可能であるということを意味している。それは体験的には、自らが発語するときに要する速度を、テクノロジーが言葉を作り出し増殖させる速度が上回ってしまった、という感覚に由来している。あえてパラフレーズすれば「われわれは発語させられている」「われわれはなにものかの発語の中で交替する主格だ」というようないいかたによって示されるような事態であり、この発語は「受苦するフュジス」をいわばひとつの傀儡としてなりたつ、発語の根拠への遡行不可能を意味している。(p204)

 どうでしょうねえ。ハイデガーが頽落をいうのはここではなく別の場所へ行けと言いたいからである。瀬尾はむしろ喜ばしげにデカダンスを自己肯定するのだがそうしたありようは理解できない。「自らが発語するときに」というとき彼は、彼自身ではなく「われわれ」という複数性によって語っている。いつから詩は「われわれ」によって書かれるものになったのだ。理解できない。
「詩は死んだ、詩作せよ」理解できない。詩は死んだと思うなら、速やかに詩から離れればそれでよい。

*1:吉岡実は例外