松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

三つの「国」の真ん中で

三つの「国」がある。

A・戦争犯罪者を自らの手で処断する事のなかった日本民族は、燦々と白日の明るさの中で繁栄をきらめかせている。
B・民族反逆者を自らの手で裁ききれなかったわが同族は、今もって逆光の中で黒々とうごめいている。
C・1960年代初頭までも、私の生きるよすがであった北共和国は今、人から謗られ嫌われ、事の是非はどうあれ国際的にも爪はじきされる国となってしまいました。*1

詩人金時鐘は2003年、日本/韓国/北朝鮮のことをこう言った。「私の八月」と題された講演で。1945年の8/15に日本は敗北し体制が変わった。しかしそれは共和制なり民主主義なりを国民が自力で獲得したというには遠いプロセスである、ことを時鐘は、自身の胸の痛みとして60年間抱えつづけてきたようだ。*2


「半世紀に渡る日本の侵略、植民地統治の非は糾(ただ)されることがなかった。」*3
東京裁判でも触れられず、その後も公式に確認されていない。
かえって、反省をしないことと引きかえに有償無償合わせて5億ドルという「韓日条約」で清算が済まされたことになっている。

1939年1月に『東洋の光』という親日日本語雑誌が発行される。 39年4月3日に神武天皇祭を期して『国民新報』という日本語の新聞が創刊される。*4 41年には、香山光郎こと李光洙(イ・グァンス)が代表をつとめた『新時代』という日本語の雑誌が出る。また『国民詩歌』という詩の雑誌もできる。*5

朝鮮人から朝鮮語を奪った。(そういうとネトウヨが強制ではないとか言いたがるが、自分の文化を徹底的に劣位に置かれ続ける屈辱のなかで時に日本語日本名を使用せざるをえない人たちの痛みを感じようとしない不幸な人たちだと思う)
言葉を奪うことは身体的暴行などと違い捉え難いが、私たちが言葉で作られた存在である以上やはり決定的な存在に対する暴行であると考えなければならない。

改めて記憶を血肉化させることの緊要さを思います。二十一世紀初頭の今は「虚」の風景が社会全体に広がって、現象の本質が見えなくなっている時代です。だからこそ実の、実際の記憶を心底、呼び覚まさなければならない時期でもあるのです。*6


大東亜戦争」で300万の日本人が死んだが一方、その十倍、被害者を合わせると百倍以上の非日本人が死に傷ついた。「大東亜戦争」という呼称についてすら国民的合意を獲得できず長い間「太平洋戦争」というごまかしの言葉でできるだけ代用してきた私たち日本民族。日本人が殺した一人の死者を心底呼び覚ます、といった当為を避けて通るのが正しいなんてことは絶対にない、と確認しなければならない。*7



ところで、少し違った方向の「記憶」も存在する。

さようなら 金和美さん また逢う日まで!!

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」理論誌「光射せ!」の第5号に元新潟県帰国協力会事務局長 小島晴則さんという方が「北に消えた金和美 わが思い、わが悔い」という文章を寄せている。
著者は昭和32年ある焼肉店で働く金和美という少女(当時16歳)に出会う。北朝鮮への帰国運動の波の中、彼女も帰国を決める。昭和35年第13次船で。
帰国の前、著者の呼びかけで旅館で送別会を開いた。教師や級友など50名も集まった。

(右が金和美さん)

和美はさわやかなチマ・チョゴリ姿で別れの言葉と帰国の希望を延べ、必ずふたたび日本へ戻って再会したいと挨拶。拍手に包まれた。*8


昭和39年日朝協会の友好使節団に著者は選ばれ北朝鮮へ三週間旅行する機会を得た。当然和美さんと再会したいと思った。
平壌到着と同時に和美をはじめ県内帰国者との面会を申し入れる。帰る前日になってやっと北側の指定した五人と面会が許された。「和美はどうしたと聞いても北側は「都合がつかない」と答えるのみ。」


昭和40年には新潟市会議員の渡部などが訪朝。「渡部は到着すると。すぐに面会を申し入れたが実現しそうにない気配を感じ、ある日、視察日程をキャンセルし「彼女に会わないうちはどこへも行かん」と言ってホテルから動かなかった。北の案内人がとうとう夕方になって和美をつれてきた。
案内人にカメラのシャッターを押してくれと頼んだわずかの隙に和美が言ったことは、

朝からこのホテルに連れてこられ、どこへつれていかれるのかわからないまま『ここで待ってろ』と言われ、部屋で待機していた。さきほど新潟から来た人たちに会わせてやる、と言われ、始めて知りました…

これだけ言うのが精一杯だった。彼女はすっかり痩せこけていた。


和美のある従姉は平成2、3年ごろ北朝鮮を祖国訪問。和美に会うことができた。従姉の語る概要は次のとおり。

和美は希望していたとおり、平壌の医科専門学校へ入ったものの、一年ほどで退学させられ、中国国境に近い新義州へ移された。従姉が会ったとき、彼女の顔は「見るに忍びないほどやつれて、しかも何かに怯えており、うつろな目で会話はほとんどできませんでした」

そしてまた従姉は言う。

彼女はもうこの世にいないと思います。*9


著者は和美が北朝鮮社会に適応できなかった理由を次のように推測する。

 和美が通っていた新潟県立中央高校は、戦前女子専門学校の名門校で、昔から”自由”の校風で知られ、そのせいか卒業生には、活発に発言する人がほかの学校と比べても目立っていた。
 北朝鮮はどんな意見を述べても「自由」だ「人民」の「民主主義」は保障されている。朝鮮差別の日本の比ではない等々朝鮮総連やそう潤煥からたたきこまれたのであろう。
 希望に燃えて帰国の道を選んだ和美は、まさか自分の率直な意見が落とし穴になるとは思っていなかったであろう。

和美さんの場合とは違うが、優秀な総連の活動家だった多くの人もまた北ではひどい目に会ったようだ。彼らが同胞の利益を守り日本社会に抵抗するために身につけた、物事を理論的に分析し反論していく能力、そうした能力を持っているだけで排除され収容所にいれられてしまうような、そうした社会であったようだ、その共和国は。

二人の死は矛盾しない

最初の金時鐘を紹介したパートでは、例示として、日帝に虐殺された詩人尹東柱をとりあげた。
次のパートでは、帰国運動で北へ渡った金和美という少女の不可解な死を取りあげた。収容所国家といわれる北朝鮮の犠牲者である。
で大事なことは、二人の死は矛盾しないということである。日本帝国主義(植民地統治権力や軍国主義、戦争)に虐殺された多くの朝鮮人、中国人その他多くの人々は悲惨であり、その死の実相に近づくための努力を私たちはすべきである。
一方、北朝鮮に多くの収容所があるのは事実である。実状は今までまったく闇の中に閉ざされていたが、今までに2万人を越す脱北者が韓国や日本に来ている。彼らの証言により北朝鮮全体主義国家の抑圧の強さ、悲惨は雄弁に語られている。彼ら多くの北朝鮮人(帰国者、同時に帰国した日本人妻を含む)の悲惨の実相に近づくための努力を私たちはすべきである。


北の抑圧を知りそれを糾弾することは、すなわち日帝の犯罪の隠蔽を動機にしているのだ、という理屈を巧みに展開して北共和国援護をしようとする奴らが存在する。そして帝国主義本国人としての罪責に目覚めただけの「良心的」人士はそれにコロンと騙される。
日本の戦後には、比較的単純な正義感で強いものにも食ってかかかる明朗な女学生がたくさん居た。金和美さんにもそうした面影を感じることができる。
そのようなたくさんの朝鮮人たちを抑圧し死にさえ至らしめた国家を糾弾しないことは、ある種の「良心的」人士の良心にまったく適合している。
これをスキャンダルとして糾弾する必要がある、と私は思うのだ。

*1:p4-5 金時鐘『わが生と詩』isbn:4000026496 一部文章改変

*2:日本だけでなく、韓国にも問題はある。しかし、「1961.4.19革命」からも延々と続いた民主化闘争によって大きく変わったことは評価しているようだ。

*3:p14

*4:その編集委員、副編集長の役割を担っていたのが、何と、金芝河が死刑判決を受けた折の韓国ペンクラブ会長・白鉄(ペクチォル)という人

*5:p82金時鐘『わが生と詩』 文章改変

*6:p92 金時鐘『わが生と詩』

*7:日本人が殺した一人の死者と言われてもイメージできない、その場合「清純としか言いようがない詩情を流露してやまなかった非命の叙情詩人、尹東柱(ユンドンジュ。27歳という若い命を福岡刑務所で散らしたのは1945年)」(空と風と星と詩 尹東柱詩集)を参照するのもよいだろう。

*8:同書 p109

*9:同雑誌p112