松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「百鬼夜行」的な言葉と運動の強度

わたしの上の主張は“少し延長するならば”次の杉田氏の違和感に共鳴するものだ。

 というか、「耳障り」とは、単なる音量や声量の問題ではない。ある「主張」が、自分の「無根拠な根拠」に酔狂しカラオケ感覚で暴れまくる(略)ことでむしろ「いつもどおり」へと転じ、そのことで真に他者たちに気持悪さと吐気を催させる「耳障り」に堕ちる悪循環、つまりそれらがむしろ徹底的な「ノイズ」へと決して転化しえない事実が致命的なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20060807/p1

しかしやはり、運動の自己満足化(享楽)、祭りとシニシズムの状況的使い分け、うまくいかない生活上の怨恨の解消、等などと、「主張の内容と、どうして声を荒げないといけないのかという理由」の二つを同時に突き付ける、つまり周囲の無関心やサイレントキルだけじゃなく、「耳障り」な声をも等しく切り裂く二重のノイズとして周囲に響きわたる「百鬼夜行」的な言葉と運動の強度は、微細な違いにおいて《ずれ》ていくはずだ、と私は信じる。その《ずれ》のみに私は賭ける。そして昨日の記事で「そのバラバラな感じがなんともいえない。悪くない感じだ」と記したように、デモする人々のバラバラさ、あるいはデモ参加者/警察・公安の人々/通行人の境界線上に泡沫のように生じた小さなノイズたちに、そんなものの可能性を感じ取った事実を、重ねて強調する。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20060807/p1

杉田氏が感じ取った可能性、それはとても興味深いものだ。ぜひ追求していってほしい。
しかしながらその可能性がないデモは駄目なデモ、耳障りなデモなのか? そんなことはないのではないか。ふつうのデモだというだけだ。
 杉田氏は余りにも高い基準でデモを裁いているように読めてしまった。


 そもそも私が書いた不満も、50歩100歩だという批判もありうる。デモの言説はそもそも(「労働者階級の」)サブカルチャーであり、それをインテリの書くブログとかの言説の付置に当てはめて批判するのは筋違いだと。でもそれは違うだろう。
しかし自己の思想が真理だとする党派的言説をあたかもそれが普遍であるかのようにくりかえされてはしらけるだけだ。