松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ジャワ島中部地震被災者支援カンパのお願い

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ジャワ島中部地震被災者支援カンパのお願い
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 5月27日午前5時54分(現地時間)、マグニチュード6.2の地震がジャワ島中部のジ
ョグジャカルタ市より15km程南の南部海岸近くで発生し、多数の死者(3000人以
上)と負傷者が出ています。避難民は20万人に上ると見られ、家屋、病院など建
物の被害も深刻であり、今後、中長期的な復興活動が必要になると思われます。

 インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)は、これまで現地と培ってき
た草の根のネットワークを生かし、ジャワ中部地震被災地支援カンパを呼びかけ
ることにいたしました。支援先は、いまのところ未決定ですが、今後の情報収集
と現地とのやり取りのなかで決定し、決定次第、NINDJAのホームページ(
http://www.nindja.com/)で随時公開していきたいと思います。

 集まったカンパは、信頼できる現地のNGOを通じて、地震被災者の支援に使わせ
ていただきます。みなさんのご支援、よろしくお願いします。

郵便振替 00140-5-37561
口座名義 インドネシア民主化支援ネットワーク
※通信欄に「ジャワ地震」と必ず明記ください

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インドネシア民主化支援ネットワーク
〒157-0065 世田谷区上祖師谷1-32-2-101
Tel/Fax: 03-5313-4470
http://www.nindja.com

ニンジャさんから上記の通り、お願いが来ましたので掲載します。
ニンジャさんは「スマトラ沖地震アチェ被災者への義捐金」活動を継続中でしたが、ジャワ地震が起きてしまいこちらにも取り組むことにしたようです。
 スマトラ沖地震被災者についてのニンジャの支援の特徴は、例えば“サウォッ”という簡易な漁網を直接支援するといった方法に表れています。

 メトロTVというインドネシアのテレビ局が、漁民への支援について取材したいということで、朝早くからサムドゥラ郡ブラン・ニボン村に行きました。メトロTVの人は、NINDJAが供与したサウォッについて、住民から話を聞いたようです。「資本もいらない(漁船と違い燃料費などを払わなくて済む)、貧困層に届く、被災者が生計を立てる手段を必要としている初期の段階で支援をした」などとお褒めの言葉に預かりました。
http://nindja.exblog.jp/m2006-03-01/#3653532 スマトラ沖地震 アチェの状況:2006年03月

踊らばおどれ春駒の

はなばはね踊らばおどれ春駒の のり(法)のみちをばしる人ぞしる


す(澄)みすまぬこころは水の泡なれば 消えたる色やむらさきの雲


こころよりこころをえんと意得(こころえ)て 心にまよふこころ成りけり
 (一遍上人語録) p112-4より『仮名法語集』岩波日本古典文学大系 

「春駒のように、はねたければはね 踊りたければ踊るがよい」それだけで良いのであって、それが「法のみち」だなんていうのは言い過ぎだろう、という反応が予想される。「それだけで良い」のは現在だから言えることであって700年前には別の言い方で合理化する必要があったと弁護することもできる。
だが本質的にはどうだったのだろう。

跡もなき雲にあらそふこころこそ なかなか月のさはりとはなれ
(同上 p109)

名月を見たいと思っていると雲がそれを遮ろうとじゃまだ!でもそのとき本当に障害に成っているのは或ものを邪魔と排除しようとするそのあなたの我心だろう。といった趣旨の歌。
踊りたいはねたいという自然な心を動きを「妄念」と排除しようとするイデオロギーを否定し、「はなばはね踊らばおどれ」のよろこびこそ、“弥陀の御法(みのり)のよろこび”だと言おうとしている。
わたしたちの時代はむしろ「はなばはね踊らばおどれ」というより、踊りたくもないのに「踊らばおどれ」というイデオロギーにおどらされている気味もありますね。

歓喜踊躍

「かの仏の名号を聞くことを得るありて、歓喜踊躍して乃至いちねんせんには」の句が『無量寿経』にあるそうだ。法然の『選択集』第五段にも引かれているそうだ。つまり一遍の「跳ね踊る」の背後にはこの一節が直接に存在しその思想のヴァリエーションのなかで一遍の歌もあるということである。
 一方「はなばはね踊らばおどれ」というフレーズを、青春とか本能的なものの解放とかいった近代的パラダイムで解釈してしまいがちだ。

髪五尺ときなば水にやわらかき少女(おとめ)ごころは秘めて放たじ
与謝野晶子「乱れ髪」より)

エロティックな歌だがこの歌は「秘めて放たじ」という強い抑圧を伴っていることを見逃してはならない。強い抑圧(キリスト教的な)という枠組みの中でしかやわらかき少女はありえなかった。そのパラダイムは今でも消滅しては居ない。『無量寿経』の歓喜踊躍を一概に馬鹿にはできないのである。

鳶飛魚躍

鳶飛んで天に戻り、魚 淵に躍る
(『詩経』大雅旱麓篇)

詩云、鳶飛戻天、魚躍于淵、言其上下察也。
(『中庸』より p158『大学・中庸』岩波文庫

「鳥や魚までのびのびと楽しんでいるさま」を儒教では上のようなフレーズとともに常に想起する。
自由としての自由というものは存在せず、テキスト(聖典)が与えるイメージの幅でしか表現できずおそらく存在できない。わたしたちは自由だと誰かが保証していると日本人は考えているようだが、愚かである。

念仏を申して、いそぎ仏となり、

慈悲には、聖道門と浄土門でちがいがある。聖道門の慈悲というのは、ものをあわれみ、いとしみ、はぐくむことである。だが、思うがままに助けとげることはきわめて難しい。(略)今生においては、どんなに、かわいそうだ、ふびんだと思っても、思うようには助けがたいのだから、この慈悲は終始をまっとうすることができない。
歎異抄4)(増谷文雄訳『歎異抄isbn:448008035X

それに対して、「浄土門の慈悲とは、念仏を申して、いそぎ仏となり、おおいなる慈悲のこころをもって、思うように衆生を益するをいうのである。」とされる。
 実際傷つきうめいていて自分の気持ちを言葉にすることさえできない被災者の立場に立とうとうするとき、「思うがままに助けとげることはきわめて難しい。」
 その難しさを直視することから少しでも離れると、慈悲は他者のためのものではなく、自分のなかに善を積むという目的のためのものになってしまう。現地の事情が全く分かっていない本国の組織が納得するような報告書を作成することさえできれば良いとするような退廃に陥ってしまう。親鸞はそんなことを言っているわけではないが、あえて被災者支援という現場に引きつけて読んでみるとそうした批判であるとも読めるなと思った。
 ではどうすればよいかですが、ここで有名な「悪人になることを恐れるな」*1という発想が有効だろう。わたしたちは外から金を持って閉ざされた共同体に入り込む。私たちは侵入者(スパイ)である。わたしたちは村の権力関係を観察し把握し誰に金を渡してはならないか決定する。わたしたちのこうした振る舞いはいわゆる善人であるより悪人のものである。

*1:そんなこと言ってない?いいえ、言っています。「念仏にまさるべき善なきゆえに 悪をもおそれるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと(歎異抄・1)」