松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

念仏を申して、いそぎ仏となり、

慈悲には、聖道門と浄土門でちがいがある。聖道門の慈悲というのは、ものをあわれみ、いとしみ、はぐくむことである。だが、思うがままに助けとげることはきわめて難しい。(略)今生においては、どんなに、かわいそうだ、ふびんだと思っても、思うようには助けがたいのだから、この慈悲は終始をまっとうすることができない。
歎異抄4)(増谷文雄訳『歎異抄isbn:448008035X

それに対して、「浄土門の慈悲とは、念仏を申して、いそぎ仏となり、おおいなる慈悲のこころをもって、思うように衆生を益するをいうのである。」とされる。
 実際傷つきうめいていて自分の気持ちを言葉にすることさえできない被災者の立場に立とうとうするとき、「思うがままに助けとげることはきわめて難しい。」
 その難しさを直視することから少しでも離れると、慈悲は他者のためのものではなく、自分のなかに善を積むという目的のためのものになってしまう。現地の事情が全く分かっていない本国の組織が納得するような報告書を作成することさえできれば良いとするような退廃に陥ってしまう。親鸞はそんなことを言っているわけではないが、あえて被災者支援という現場に引きつけて読んでみるとそうした批判であるとも読めるなと思った。
 ではどうすればよいかですが、ここで有名な「悪人になることを恐れるな」*1という発想が有効だろう。わたしたちは外から金を持って閉ざされた共同体に入り込む。私たちは侵入者(スパイ)である。わたしたちは村の権力関係を観察し把握し誰に金を渡してはならないか決定する。わたしたちのこうした振る舞いはいわゆる善人であるより悪人のものである。

*1:そんなこと言ってない?いいえ、言っています。「念仏にまさるべき善なきゆえに 悪をもおそれるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと(歎異抄・1)」