松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

田あるによって生命育つ

『Doing 思想史』 テツオナジタというのは、変な題だし、余り読まれなかった本(2008年みすずが翻訳刊行)かもしれない気がする。
今の私の問題意識に響くものがあって、感銘を受けた。


18-19世紀の日本人の形而上感覚・気一元論が、例えば山中の芽生えのエロスを身体いっぱいに受ける体験に直接つながっている、というふうに直接的・肯定的に受け取ることができた。形而上学とエロスは直結するものではないのでそれは勘違いなのだが、かならずしも見当違いではないと思っている。
日本的無神論、自然の聖化、につながっていくかもしれない宇宙感覚という感じである。日本での自然の聖化は、国体(国家)の聖化につながっていった歴史がある。しかし、明治維新以前の安藤昌益や二宮尊徳などの思想の根っこの部分だけを取り上げるとそれとは逆に理解できるのだ。

ナジタさんの紹介によると、二宮尊徳は非常に有名だが、誤解されている。つまり、死後各方面がそれぞれ(自分が利用するために)自分勝手な尊徳像を作り上げ強調したということのようだ。 (同書のp105-121 「時代的文脈のなかで考える もうひとつの徳の諸相(報徳の思想と運動)」より)

「尊徳自身は宗教をすべて否定していて、神社なんかつくってくれるな、という話を弟子にしています p108」。にもかかわらず、「文部省が金次郎像を国中に建てて、金次郎は国家道徳を支持し、教育のあるべき姿を身をもって示した聖人であると評価することになります。」ここで尊徳に対するパプリックイメージがむりやり作られ、戦後もその虚像から離れるのは難しくなります。

さて報徳とは、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)」という意味らしい。
https://www.hotoku.or.jp/sontoku/
徳も報も、倫理的意味ではない。倫理的意味を脱色したプラグマティックな感じが、尊徳的ですね。
徳:「むしろ、永遠あるいは普遍的な自然という意味なのです。」人間に内在する徳とは、命、動的で活発なエネルギーが孕まれた自然そのものを意味します。すべてが生の連鎖として絡み合った自然。知識もまたこの自然にあると考えられます。

生すなわち命は、自然から人間に与えられたギフトです。
貝原益軒は、生は恩であるといいました。与えられた生という恩、それに応えるという意味での報恩。それを報徳と言い換えたのが尊徳の思想だとナジタは論じます。

自然・天の止むなき生の連鎖を助けて支えること、それが道徳。自然を理解する者ならだれにでもできる、農民なら。生きているその土地の周りを耕し、その小さな自然をいっぱいに花開かせたなら、また自分自身も生きることができるわけです。
儒教はそもそも性即理であり、自分の生は天と直結しているという思想は強い。しかし、支配階級として人民を支配するという意味での天の意識を、少しだけ変えて、農民が自然と相互作用しながら生きることに〈天は我なり、我に天あり〉という思想に変えていったのです。これはやはりひとつの革命思想と評価しうるのではないか。
東学の〈人乃天〉(人すなわち天)の思想は,「人間の平等と主体性を求める反封建的な民衆意識を反映するもの」とされるが、時代的にも共通点はあるのだと思う。https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E4%B9%83%E5%A4%A9-1399607

まず民(人民)ありと考えるのが儒教です。いわゆる民主主義的感覚も共通点はある。すべての日本人が困らなければ、他の問題が多少あっても無視してもよい。しかし人民とは?いまある学校制度や資本主義の枠内で苦しむしか能のない人たちのことであるならば、かなり限界があるだろう。

「人ありて、土あり、そして富あり」、という思想はダメだ、と尊徳は考えた。
「自然ありて民あり、民ありて労働あり、労働ありて組織あり」という順序で考えるべきだというのが尊徳の思想になる。

例えば、儒教は「孝」を大事にするが、子供があってこその孝である。現在のように資本主義的締め付けが厳しすぎて子供も生めない、そのようなことがあれば本末転倒であろう。
あるいは「フェミニスト」とはとか「自己の欲望とは」といった不可避の問い(闘い)が、自己の観念内のものしかなく、結果的に子どもなしに終わった、とか(これはデリケートな問題なのでうまく書けないが)

他者(パートナー)を含んだ、自己と労働との関係、自然との関係、その生き生きとした生成とのつながりが第一義であるはずだというわけです。
それは「天皇は民の親である、という縦の思想を否定することにつながります。P115」(ただこれが金次郎像によって裏切られたのは前述のとおり)

安藤昌益は土と向き合い仕事をする、肉体的労働を重んじて、文字や学問を否定し、儒学の文字重視は民衆を搾取するための政治的道具だときびしく批判した。P117

尊徳もまた、土との関わり(田徳、田畑の恩恵)がすべての基礎であると考えた。
「田なければすなわち生養なし。田あるによって生命育つ。田徳あるが故に君は君たり。略。田徳あるが故に自己は自己たり。略。田徳あるが故に諸芸は諸芸たり。田徳あるが故に車馬は車馬たり。」
尊徳は昌益と違い、君(支配者)を否定はしない。しかし、価値の中心は田徳であり、諸芸や車馬が田徳によってそして田徳のために肯定されるのと同じように君主も肯定されているに過ぎない。

自然もエコロジーという学説や宗教のカテゴリーにとどまる限り、観念に過ぎない。わたしも自然から生まれ自然に帰る、そのような存在の開かれをどう思想化していくか、という問いに二宮尊徳(金次郎)という人の思想がヒントになるとは、意外な驚き(喜び)だった。