松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

可哀相な国、日本。

 発言者が少なくて場が白けると困るなどといった言い訳もあるようだが、

当日参加した高校教諭の男性は「私も五回ほど手を挙げたが指名されなかった。はじめから、改悪案の宣伝が目的だったのではないかと思った」と言っている(赤旗11月8日)。

タウンミーティングの名に反し、民主主義という理念に反し、街の人の意見自体を捏造するための国家的企画であったことはいまや明らかである。

 それにもかかわらず、教育基本法改正は成立する。この法律の掲げる「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させる」とは、国家の決めた*1方向性のために、企画し調整し隠蔽し協調することである。


 まあ好きにすればよい。
 ところでもうすぐ成立する(らしい)改正教育基本法体制は、戦前の教育勅語体制と比較してどうだ。戦前回帰だと反対派は言っているがまったく見当違いである。今回のものは教育勅語体制と比較すると、まったくどうしようないほど堕落したものである。というのは、教育勅語には「皇祖皇宗」という価値の根源が明記されていた。これは中国思想でいう「天」あるいは「理」を日本的に言い換えた普遍原理である。右派が愛国心にこだわているのは、愛国的であるからではなく道徳やすべてものの根拠として「天」あるいは「理」がなければならないという東洋人としての心性からきている。では基本法に「愛国心」を入れれば問題は解決するかというと、しない。日本が日本であるための「皇祖皇宗」はすでに死んだ。誰が殺したのかというと裕仁天皇である。
国家国民を総動員した戦いに無惨に負けて、退位しないなど「皇祖皇宗」に許されるはずがないのだ。
参考 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051109#p1


 でまあわたしたちは、正義と徳の基準を一切欠いた国家に、低脳で品性を欠いた権力者の歪曲された権力の下に、今後ずっと生きていくわけだ。
 だからといって絶望することもない。まあぼちぼちやっていきましょ。

*1:法律が通っていないのに、なぜ国家は意思できるのか?