松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

別の時空の私との共同表現

〜'86.12.12〜の松下昇 Sこと〜氏の〜12.6〜7〜表現についての感想断片


1,省略


2,〈枠〉とか〈武器〉として文書表現を扱うとき、対象に逆規定される時空間の関係性におちいりかねない。
対象x と対等な表現の根拠y の双方を規定している力の根源z へ〈一行の詩〉として殺到すること、〈一行の詩〉で世界を支えようとすることこそが、本当に枠を 突破する武器ともなりうる。


3,遺すとか届くについても、可視的な相手にではなく、別の時=空間の{私}との共同表現をしていこうとする希望〜絶望 の深さ のみが問題である。
(そのような志向なしに、いかなる切迫しているようにみえる闘争へのかかわりも、かならず吸収され切ってしまうことを、歴史が示している) 

私はこの間、琉球処分まで500年ほど存在した「琉球王国」の存在を否定するという珍説を唱える琉球歴女というひとたちと、twitter上で論争していた。
https://togetter.com/li/1133220 など。


また、はてな上で、執拗に三浦という人の悪口を私のブログのコメント欄に執拗に書き入れるsimotukareというひととひさしぶりに「対話した」。


いずれも私の思想とは遠いひとであるが、対話のような形を取ってしまっている以上、共同表現とも言いうる。
ひょっとして「別の時=空間の{私}との共同表現」と言いうるのだろうか、とふと考えてみた。
私x そのものの思想性を高めたり、味方を増やしたりといったやり方で敵に勝とうとしても無理だ、というのが松下の思考の基本である。ある意味で私x の位置を低くし、相手y の位置とその双方を支えるz を把握する、それが出発点でなければならない、とする。


かなり狭い論点を、それが非常に普遍的な問題であるかのようにいいつのる、という姿勢が琉球歴女とシモツカレ氏には共通する。
提示された論点ではなく、それがどのような平面上に展開されているか、それに関わっている相手の根本の動機は何なのか?そうしたことを考えるなかで、真に相手を包括し論破出来るのかもしれない。