松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『中国低層訪談録』(その1)

『中国低層訪談録』は政治的な本ではない。個人個人の奥に秘めた沈黙をあらわにさせる本だ。 次に書くのは二つの例である。


文革というのはよく分からない。浅く分かった気になるのは危険ということは分かった。
次のような文章がある。

わたしたちは六人家族で、61年に二人が餓死して、残りの四人は四派に分かれたの。*1

これがどういうことか実感できない。高校生の時仲良かった四人が大学闘争のときに四派に分かれたくらいなら分かるが、思想や政治党派にいかれやすい気負った若者ではなく、実際の大衆が四派に分かれ時には武装して戦ったとはどうした事態なのだろう。
「永続する革命」のダイナミズムと、うたいはやして分かった気になるのは駄目だ。しかし全否定するのも駄目だろう。

わたしは、正統的な造反派の「成都労働者革命造反兵団」
夫は、正統的な保皇派の「産業軍」
母は、なりゆきまかせの逍遥派
弟は、「老三届」の高校生で、「紅衛兵成都部隊」*2

この家族の行方については本を読んでもらうことにして、次に別の箇所から引用する。


「老紅衛兵」というタイトルのインタビュー。
1966年に紅衛兵になったRさんは、2000年になってもまだ紅衛兵の体験にある輝かしさを感じていることを隠さない。
毛沢東の何に惹かれたか、について彼はこう語る。

革命派を包囲攻撃し、異なった意見を抑えつけ、わがもの顔で得意になり、ブルジョア階級の威風を増し、プロレタリア階級の士気を挫こうとしている

と毛は、トウショウヘイ一派*3を批判した。

まさに、この発言は、排除され、抑圧され、甚だしくは独裁下に置かれた学生たちの心を完全につかんだのだ。*4

中国革命は、組織された大衆的糾弾を方法としてうまく使って革命後の社会を共産党の方針に従わせてきた。ブルジョア的人士をつるし上げること自体はこれまでも善だった。

これは、それまでの政治運動が育て上げたものだ。違うところは、過去のはみな、組織の監督のもとで背と背を向けて互いに摘発しあって、運動を進めたが、いまや逆になったのだ。群集が運動をお越し、みんなで実権派をやっつけた。*5

大衆的熱狂とともに逆転が起こった。
インタビュアーはたぶん独自の人懐っこさをもっているのだろう。どの相手もふだんなら決してしゃべらないような内心の思いを彼の前にさらけだす。
校長が自殺した衝撃的な話のあと、R氏は「何とも傑作だったのは大廟堂の若い和尚たちの造反だ。」と語り出す。
老威(作者)もさすがに「これを造反というの。・・・めちゃくちゃだよ。」と鼻白む。

わしの青春、夢、熱狂とロマンは、みな文革にかかわっている。おまえがどう思うおうとも、少なくとも文革初期の一、二年間、人民は十分な自由を、ひいては絶対的な自由を享受したんだ。不自由なのは、走資派で、高級幹部の師弟で特権階層だった。やつらはふだんは高いところにいて、民間の苦しみなんか知らんぷりをしていた。しかし、いまやいかなる政治運動とも異なり、世界が逆転し、やつらにもプロレタリアの鉄拳の味を教えたのだ。毛主席が天安門の楼閣上で八回、百万の紅衛兵を接見されたのは、世界共産主義運動史上でもまったく前例がなかった。
 わしもまた紅い大海原の中にいたのだ。みんなについて歓呼し、涙を流したものだ。わしらが「毛主席万歳!」と叫ぶと、毛主席は帽子をふって「人民万歳!」と叫んだ。本当に人民と領袖の心と心が通じた時代だった。わしらはずっと数時間も歓呼し、跳びはねつづけ、「毛宝書」をふりつづけた。ふだんなら、とっくに気を失って倒れたろう。
しかし、あの日あの状況では、からだが最も弱い女子生徒だってずっと興奮して、長い間シュプレヒコールを叫んでいた。まったく喉がかすれて、煙が出るくらいだった。その後、おおぜいが話せなくなった。本当だ。いくらがんばっても喉から音が出なかったんだ。
 でも幸福だったなあ。みな早起きして、互いにうなずきほほえみあった。黙っていても心はつなっがっていて、つれだって大経験交流会に出かけた。口に蜂蜜をいっぱい含んでしゃべれない者の一郡のようだった。もしかしたら、わたしらは一生、あの一日、あの一時のために活(い)きてきたのかもしれない。*6

 反省がないと早急に批判するのではなく、まずそこに何があったのかを知ろうとすることが必要でしょう。でそれは困難なことですが、廖亦武(リャオ・イウ)さんの『中国低層訪談録・インタビューどん底の世界』は劉燕子さんの翻訳によってそれを可能にしたのです。

*1:p226 中国低層訪談録

*2:文章改変 p226 同書

*3: 

*4:p197 同書

*5:p199 同書

*6:p202 同書