松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本の陰画である北朝鮮収容所

えーと先日、「もうすぐ50年になる」という文を書き、姜哲煥さんの収容所体験の紹介を試みました。その続きです。*1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090606#p1
まず、場所の確認。t-toshiさんが、下記のように「管理所」一覧を地図上にマークしてくださってとても便利です。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=utf8&t=k&hl=ja&msa=0&msid=106995438506078502525.0000011222bfb4b8ed141&ll=41.836828,127.683105&spn=6.449363,11.337891&z=6
グーグルアースというのは縮尺が一瞬で世界大から家一軒単位まで切り替わるので、自己の視点を対象化しうる。北朝鮮収容所の連鎖は地球という規模で見た場合日本にとても近い。あらためて確認するほどのことではないと云いながら、画像に示して強調して見る。上の画像がそれだ。

 私たちが引っ張ってこられたところは、威鏡南道の南方に位置する輝徳郡という山間の奥地だった。

 四方が海抜千五百メートルを超えるけわしい山に取り囲まれており、北には千七百四十二メートルの白山と千八百三十三メートルの毛都山がそそり立ち、西には千五首十七メートルの徳山と、千五首四十八メートルの屏風山があった。(p34 姜 哲煥,(安 赫)北朝鮮脱出〈上〉 (文春文庫)isbn:416710914X C0130 )

文章で書けばこのようなところだ。

 輝徳郡には二十いくつかの「里」(韓国でいう面(ミョン)、日本でいえば村)があって、その中の五つの里が収容所区域となっている。即ち終身収容所に当たる「完全統制区域」の龍坪里と坪田里そして革命化教育が徹底したとみなされたとき出所する可能性のある「革命化区域」であ

る旧巳里(クウプリ)、立石里(イプソクリ)、大淑里(テスクリ)である。

 私たちが収容されたのは立石里である。この三つの「里」には、海外に逃亡しようとした者、体制に批判がましいことを言った者、外国で見聞きしたことを人にしゃべった者とその家族、北送船に乗って帰国した僑胞、越北者などが収容されている。

 独身収容者と、家族世帯収容者は別々に収容され、さらに家族世帯の収容者も、原地民(北朝鮮生まれの人)と「北送僑胞や日本人」を別々の集落に分けて収容している。

 私たち一家が収容されたのは帰国者の集落「十班僑胞村」である。

 革命化区域には独身者が千三百名余、原地民家族世帯が九千三百名余、そして帰国者家族世帯が五千九百名くらいが収容されているらしい。

 輝徳郡にある「15号管理所」全体では、全部で五万名あまりが収容されている。現在十二カ所の収容所に、二十万人を超す人が収容されているといわれており、輝徳は実にその二五パーセントを収容する大収容所ということになる。

輝徳(ヨドク)の収容所の概要である。
姜 哲煥(カン チョルファン)さんが収容されていたのは、1977年から87年まで10年間。
「北送船に乗って帰国した僑胞」というのは日本から「帰国事業」でによって半島に帰っていった人たち。その行為は北朝鮮国家にとって罪ではなく、逆に英雄的行為としてほめ讃えるべきものであったことに間違いはない。であるにもかかわらず、日本社会で養った批判精神*2合理精神のために、かえってささいなことでつまはじきされ、収容所に入れられてしまうことが多かったようだ。*3


さて、現在もそこに沢山の人々が収容され苦しんでいるはずの収容所なのですが、どうもうまく距離を取れず書きづらく感じる。収容所とは何か?
収容者の人権が無視されるという「あってはならない」事態が日常化しているそのような「出ることができない」閉鎖空間。


とりあえずこの本の紹介をもう少し続けよう。
姜哲煥(カン チョルファン)さんは、9歳の時、8歳の妹と父と祖母とともに突然収容所に入れられる。
収容所でさせられることは基本的に労働である。子供も学校にいきながら労働させられる。
兄妹が初めて学校に行った日。

 学校は作業班の広場から歩いて約十五分の距離にあった。学校に到着すると、すでに他の区域から釆た生徒たちが、運動場に大勢集まっていた。学生監督の号令にしたがって五十名ずつ、学級別に四列縦隊に整列した。すぐに朝会が始められた。

 ずんぐりした体格の五十代の男が教壇の上に立った。彼が他ならぬこの学校の校長であった。言葉の上では校長であるが、校長にふさわしい風貌とは縁遠い男だった。険しい顔、腰には拳銃をつけており、威圧的だった。また口さえ開けば悪口がついて出た。

「えー、われわれは偉大なる首領様金日成同志と親愛なる指導者金正日同志の温かい配慮と恩恵により……」

 校長は北朝鮮のどこでも聞くことのできる常書的な文句で切り出した。

「おまえたちは罪人の子である。おまえたちの父母はわれわれの党と祖国に背信し、ぬぐい去ることのできない過ちを犯した。しかし、偉大なる首領様金日成同志と親愛なる指導者金正日同志が、おまえたちに学ぶ機会を作ってくださった。おまえたちは少しでもその恩恵に報いるために、一所けんめい働かなければならない。万一、規律に違反したら、容赦なく処罰する」

 生徒たちは、息を殺した。校長の辛が、腰につけた拳銃の上にいったためだけではなかった。

彼の首には青筋がたち、目には殺気がこもり、顔には憎悪心が満ちていた。

パンチョッパリのガキども。おまえたちの父母が罪を犯さなかったら、われわれはこんな苦

労をすることはなかった! 全部おまえたちのせいだ。おまえたちのような反逆者のせがれど

もには、一日に三食食べさせるのももったいないことだと思え!」

(同書 p41)

漫画のような悪役ぶりだが当然ながら話はこれで終わらない。

 また、こんなこともあった。ある生徒が、横の生徒とひそひそ話をしていて楊教員に見つかった。楊教員はその生徒めがけて、思いきり黒板消しをを投げつけた。その子は、飛んでくる黒板消しを反射的によけたおかげで、黒板消しは当たらなかった。代わりに、そのうしろに座って首をかしげていた生徒の頭に当たって床に落ちた。黒板消しが当たった生徒の頭と顔にはチョークの粉がふりかかって白くなった。その様子を見た私たちは笑いを禁じ得ず、声をころしてクスクスと笑った。

 するとカッと腹を立てた楊教員はひそひそ話をしていた生徒に走り寄り、指示棒で頭と背中をめった打ちにした。まるで生きものではない物体を叩きつけているようだった。その生徒は両手で頭をおおい、身を締めて打たれ続けていた。私はそのうち死んだらどうするのかと心配になって、息を殺してその光景を見守っていた。

 気がすむまで殴りつけると、楊教員は悪態をつきながら自分の席に戻った。本当に命は強いものだ。あんなに殴りつけられても、その生徒はあちこち流れる血をぬぐいながら、まだ動きまわっていた。
(同書 p44)

これが学校での日常である。もっとひどい話はいくらもある・・・

*1:内容が重いからか、なかなか読み進めることが出来ず2ヶ月もかかってしまった。

*2:反日派のための註:日本社会の封建制、排外主義との闘いによって養われた批判精神

*3:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090606#p1で原さんの意見を借りたように日本の左翼は責任を感じるべきであろう。