松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「私を愛せ」/死者

愛する者の有無を言わさぬ命令、瞬間的にほとばしりでて、ほとばしりでる瞬間にすでに声ともなっているような直接的な命令、つまり愛する者の「私を愛せ」は、愛のまったく完全な表現であり、愛のまったく純粋な言語である。直説法が対象性についての長々とした根拠づけの全体を後ろ盾にしており、それゆえもっとも純粋なかたちでは過去形であらわれるのにたいして、「私を愛せ」という命令法は、まったく純粋な、準備を欠いた現在形である。
「救済の星」ローゼンツヴァイク*1 

http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14925.htm
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14926.htm
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14927.htm
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14928.htm
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col14929.htm


死者は死んでしまっているのであるから彼自身にとって現在はない。写真を見るときその瞬間に立ち上がるものそれはしかし過去ではない。むしろ準備を欠いた現在形が、その意味は喪失であるとしても、立ち上がるのではないか。


なお上記写真集は過剰に残虐なもの*2を含みます。
また、イスラエルシオニズム側からは反ユダヤ主義的と強く批判されるものです。わたしは反ユダヤ主義の蔓延に賛成するわけではありません。
「「イスラエル」と「ナチス」したことは同じ」という命題は確かに厳密には問題があるでしょう。しかし、わたしはイスラエルは占領下の400万人の人々に対し、奴隷か死かをせまっていると思えます。これはゆるやかであってもジェノサイドである、と認識します。

*1:p172「対話の哲学」isbn:9784062584265

*2:わたしは表現として認めますが