松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ガザの子供(も)かわいそうじゃないか?

客)喪を組織することは禁じられているというのが野原の立場じゃないのか?
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090107#p2 にデリダを引用して書いたように。しかし上記の写真集は明らかに「喪を組織している」じゃないか。きみの立場からは批判すべきではないか?

野原)確かにそのとおりだ。
しかし、上記写真集はそうした批判を考慮に入れて編集されている、と考えることができる。というのは左にユダヤ人被害者、右にパレスチナ人被害者が、極めて似通った構図で正確に同じ面積だけ映し出されているのだ。どちらも悲惨な写真だから先入観なしに見れば、どちらにも等しく同情の念が湧くはずだ。しかしシオニストはこの写真集に対しカンカンになり、これを決して受け入れることができないでしょう。ホロコーストは歴史上1回だけの決定的な惨事であり比較を絶するものである、これが彼らの根拠であり、それは神学的影響力でもって広範な言説磁場を作っています。
ナチス・ドイツポーランドなど欧州各国の強制収容所でしたこと(させたこと)は、イスラエルガザ地区でひとびとにしたこと(させたこと)とほぼ同じであるということ」を訴えたいというのがこの写真集の狙いであるという。ナチスの暴虐はイスラエルの暴虐に比べられるようなその程度のものではなかった。何倍も何十倍もひどいものだと。かりにそうだとしてもよい。程度が同程度であるかどうかがかならずしも大事なわけではない。問題は質的な同一性である。
閉じ込められうつろな目つきのユダヤ人の子供たちまた閉じ込められ哀しそうなパレスチナの子供たち。彼らには出て行くところがない。未知の世界に広がっていくべき未来が彼らには欠けている。十年立っても情況は変わらないだろう。なんとかガザを脱出できない限り不安におびえながらの貧しい生活があるだけだろう。たしかに数ヶ月で虐殺されてしまう未来よりはましかもしれない。しかし、非道であることにおいて同一性がある。


このようにこの写真集は、自らの喪、受難を特権化、超越化しようとはしていない。すでに社会で認められたユダヤ人の受難というものに比べ、わたしたちの受難も同程度だと(遠慮がちに?)訴えている。したがって「喪の組織の禁止」という発想からして問題があるとはいえない。