松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

通名で生きること

結局のところ、「ザイニチ」問題は、「内面」問題でしかなく、「ザイニチ」自身も、また「内面」問題として、そのことを処理していくしかない。自分を「さらす」ことを決意して、「本名」で生きるか(それによって得られる自己肯定性と引きかえに、露骨な「差別」を受けることを覚悟して)、または、自分を「さらさない」ことを選んで、「通名」で生きるか(それによって、「差別」を受ける可能性が低くなることと引きかえに、歴史を裏切っていること、偽りの生を生きているのだという、自己否定の感情にさいなまれ続けながら)。
http://d.hatena.ne.jp/F1977/20080820/1219206101

 日本のブロガーはハンドルネームと本名の二つを持っている。私の場合は野原燐とNK*1である。NKという名前で戸籍と住民票があり結婚し子供を育て仕事している。わたしは普通と異なりNKではなく、野原燐の方が本名であると自ら思い込みたいと思ってきた。わたしは正確であることを目標に生きてきた。自己が職業や性別、出身、民族といったものに汚染されたままそれが自己であるかのように信じてしまって死んでくのは耐えがたい。デカルト的発想かもしれない。そこで職業や性別、出身、民族といったものに汚染されざるをえないNKではなく、それらから自由な野原燐というものを立てそれが自己であると考えようとしてきた。*2
 上の文脈でいうと、自分を「さらさない」ことを選んで「通名」で生きることを選んだわけだ。(それによって「差別」を受ける可能性が低くなることと引きかえに)という面もある。わたしはかなり過激な主張を挑発的文体で主張することもあるので、社長や警察に知られたくない。
しかし、(歴史を裏切っていること、偽りの生を生きているのだという、自己否定の感情にさいなまれ続け)たことはない。まあないと言いきることもできないか。正確に生きることは、順法的に生きることではありえないのはいうまでもない。*3職場にいる私がNKでなく野原であるなら野原はそれによって自己の職場での立場が悪くなってももっと率直に自己の思想を発言し職場を変えていこうとすることができる。そうすべきだったろう。話がそれている。私が野原であることがアプリオリであるなら、それに対し自己否定の感情にさいなまれ続けることなどありない。
 上の文章の筆者は(なぜ歴史を裏切っていること、偽りの生を生きているのだという、自己否定の感情にさいなまれ続ける)のだろうか。民族性を人は捨て去れないし捨て去ろうとする生き方は間違いだ、という思想が問題なのではない。韓国=朝鮮/日本 という不均衡な空間の歪みを民族性という中立的言葉に置き換えると抜け落ちてしまうものが問題なのである。ザイニチという空間性において韓国=朝鮮は劣位にある。劣位にある以上通名が当たり前である。たとえ本名を名乗ろうとひとは日本人あるいは二流日本人としてしか日本で生きていくことはできない。本名で生きてもこの当たり前の構造を打破することはできない。本名で生きても「偽りの生を生きる」ことしかできないのだ。
 さて日本人が本名(日本人らしい親からもらった名前)を名乗って生きていく場合は「偽りの生」ではないのか。そうでもなかろう。かっての朝鮮や満洲で育った場合「日本人」はある「優位」を背後に成長していく。異族の女中さんに世話されて育つみたいに。それもまた「偽りの生」ではあろう。
 そうではないふつうの日本人もまた偽りでない生を生きているとはいえない。ナショナリズムといった面に限っても、戦後60年も経って、朝鮮あるいは中国人に対する地理的〜歴史的近さを「右翼的ヤスクニ主義」か「左翼的反省主義」*4のどちらかしか持ち得ないひどい貧しさ。そういう点からも「偽りの生」とはいえるであろう。


「「ザイニチ」問題は、「内面」問題でしかなく」とはどういうことだろうか?
マイノリティにおける私秘的ものは、例えばプライバシーといった私秘的を意味する概念においても、語り得ない。ブログでプライバシーを論じるのは権利とか一般常識として語ることができる事柄だけであり、マイノリティにおける私秘的ものはそれに隣接しつつも結局は語りえない。といったことだろう。
そういうふうに抽象的に語るなら、「ふつうの日本人」においても一般的議論からこぼれ落ちる私的ものをたくさん抱えていきているのは自明である。ただマイノリティの場合は、「通名か本名か」「外登は?」とかクリティカルな問がつねに向こうからやってくる。「ふつうの日本人」ではそれはない。しかし自覚しないことの持続はおそらく、「ふつうの物神化」=拝外主義を招き寄せるのではないか、とはネットを観察していても容易に結論しうる。

あなたや殆んど全ての人が自分の職業や思想・宗教や趣味・習慣を生涯にわたって一度も疑わずに一生を空費しているのはなぜか?
(松下昇 概念集 9-p13 より)

 哲学とは学問とは文学とは、最もラディカルに疑うことだといった建前が語られる。しかし通常それは建前に堕してしまっている。
 プライバシーといったありふれた言葉を聞いてふとつまずいてしまった経験に、私たちが深く聴き入らなければならないのは、それを覆すためだ。

*1:任意

*2:大学に入学した時点で、「就職のために大学に入学するNK」は私ではなくなった。

*3:まあ社会に矛盾がないのなら順法的に生きてもよいのだが、実際にはわたしたちの国家は不法なイラク占領に加担しているし、拉致問題とやらを焦点化することにより収容所国家の延命に力を貸している。

*4:反省はいいんだが「皇国=帝国」への反省ががあまりに一国主義的であったことが問題。