松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

否定はイエスには全く不可能なことだ

 イエスはすべての固定したものをなんら認めない。言葉は殺し、固定した全てのものは殺すからである。イエスだけが知っている「生」という概念、経験は、彼にあっては、あらゆる種類の言葉、定式、法則、信仰、教義とあいいれない。彼は最も内なるものについてのみ語る。「生命」ないし「真理」ないし「光」とはこの最も内なるものをあらわす彼の言葉であり、−−その他すべてのものは、全実在性、全自然、言葉自身は、彼にとっては、記号の、比喩の価値を持つにすぎないのである。
(略)

文化は彼にとって噂によってすら知られていない、彼は文化と戦うなんらの必要もない、−−彼は文化を否定しはしない・・・同じことは、国家についても、全市民的秩序や社会についても、労働についても、戦争についてもあてはまる、−−彼は「この世」を否定する理由をけっしてもたず「この世」という教会的概念をけっして予感したことがなかった・・・否定とはまさしく彼には全然不可能なことである−−。
(略)

(彼の証明は内的な「光」、内的な快感や自己肯定、純然たる「力の証明」である−−)。
ニーチェ p212「反キリスト者」『ニーチェ全集14』isbn:4480080848


ニーチェキリスト教と教会を全否定するが、イエスに対してはそうでもないのだ。このイエスに対する謎めいたオマージュから田川建三だけでなく、カール・バルトも影響を受けたと考えても間違いでは無かろう。

ところで、「全実在性、全自然、言葉自身は、彼にとっては、記号の、比喩の価値を持つにすぎないのである。」というのは、イエスにとってだけではなく、すべての日本人*1にとってもそうだろう。
ところで“愛国心が好きな日本人”を野原は馬鹿にしている。まさにここで“ニーチェが否定しているもの”に是が非でも憧れ自分のものにしようとするトンチンカンの極みを演じている人たちであるからだ。

*1:一部の馬鹿を除く