松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

じぶん自身を信じきれるか?

吉本の福音書理解の土台はとことんニーチェ主義で意地が悪いが、ユニークで興味深いところも多い。

まず近親に見捨てられ、見捨てるところからはじまり、信仰者同士の不信や不信や背反に到達し、ついに自分自身としてのイエスの廃棄にいたる消滅の劇が、この福音書のなかでもっとも見事な楽音を発している。これがなかったらマルコ伝はたんなる教義、わけても荒唐な奇蹟話と寓喩的な教訓の編書となってしまうかも知れない。
吉本隆明『論註と喩』p154

「自分自身の廃棄」とは「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ?」(マルコ15-34)のところを指している。

 イエスがじぶん自身を信じきれないで死んだことを、普遍的にいい直せば、人間はじぶんでじぶん自身を信じきれるか、信仰のあるなしとは別に、生き方としてじぶんでじぶん自身に問うばあいに、じぶん自身を信じきれるかといえば、やはり信じきれなかない存在なのだということでしょう。千年に一度しか出現しないそういう人も、やっぱり信じきれなかった。人から問われるということでなしに、また人から非難されるとか批判されるという意味でなしに、じぶんがじぶんに問うたとき、じぶんがじぶんに対面したときに、じぶんを信じきれるかという問いにやっぱり信じきれないよというふうに、マルコ伝の主人公は描写されています。それから、その主人公自身もやっぱりこういうふうに、じぶんを信じきってないということ、そういうふうに自分自身かんがえているっ
てこと、そのことの描写がやはり、また思想だと思われるのです。
(「喩としての聖書」1977.8.31日本YMCA同盟学生部主催・第5回夏期ゼミナール 於 東山荘での講演 「言葉という思想」1981.1.30弓立社に収録された)
http://shomon.net/ryumei/yo10.htm
吉本隆明鈔集10

上の引用だけだとよく分からない。丁度ネットに、その解説に当たる吉本自身の言葉が在ったので、引用させていただく。まあそれでも「また思想だと思われるのです。」なんていわれてもという気持ちが残るんだが・・・