松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしは「神の子」である。

「信仰」がキリスト者を区別するのではない。キリスト者は行為し、異なった行為によって区別されるからである。

  1. わたしは、おのれに悪意をいだく者に、言葉によっても心のうちでも手向かわない。
  2. わたしは、異郷人と同郷人とのあいだに、ユダヤ人と非ユダヤ人とのあいだになんらの区別をもおかない。
  3. わたしは、誰にも立腹せず、誰をも軽蔑しない。
  4. わたしは、法廷に姿をみせることもなければ、弁護を引き受けることもない(誓うな)。
  5. わたしは、どんなことがあっても、たとえ妻の不義が証明された場合でも、その妻を離縁しない。


すべてこれらは根本においてただ一つの命題であり、すべてこれらはただ一つの本能からの結果である−−
ニーチェ p214「反キリスト者」『ニーチェ全集14』isbn:4480080848

(文章を少し変えてみた。文意はそこなっていないつもりだが。)
上の1〜5のうち、2だけしかわたしは賛成できない。
権力あるいは権力サイドに立つ者が悪行を行ったときは、声を挙げそれを糾弾していかなければならないと思う。
造反有理」という理を、ほとんどアプリオリな場所に掲げたいというのがわたしの発想だ。