肯定者としてのイエス。
その最も有名なエピソードは、次だろう。
(略)
そこでイエスは、そのファリサイ人の家に入り(食事の座に)横たわっていた。すると見よ、その町の罪人であった一人の女が、彼がそのファリサイ人の家で横になっていると知り、香油の(入った)石膏の壺を持って来て、後方から彼の足もとに進み出、泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自分の髪の毛で(それをいくども)拭き、さらには彼の両足に接吻し続け、また(くりかえし)香油を塗った。
(ルカ 7・36-38)岩波書店isbn:4000233106
参考:マルコ14・3-9 マタイ26・6-13 ヨハネ12・1-8
「ヨハネ」からも引こう。
さて、マリア*1が純粋で高価なナルド香油1リトラを取ってイエスの足に注ぎ、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで満たされた。
彼の弟子たちの一人、後で彼を引き渡すことになる、イスカリオテのユダが言う、「なぜ、この香油は三百デナリオンで売られ、貧しい人々に施されなかったのか。」(略)
つまらないことしか書けないが。
イエスは「高価な香油」に憧れたわけでもそれを入手したいと願ったわけでもない。それに対し、ユダは常にものをその交換価値において見ている。憧れること/欲望すること/金を稼ぐことは、〈生きること〉ではない。であるのにそこにはつねに転倒が起こる。