松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「偽りの生」をめぐって

(それによって、「差別」を受ける可能性が低くなることと引きかえに、歴史を裏切っていること、偽りの生を生きているのだという、自己否定の感情にさいなまれ続けながら)
http://d.hatena.ne.jp/F1977/20080820/1219206101

 アイデンティティというものにわたしたちは呪縛されていて、それは自己のうちに「偽り」を見出していく傾向として指摘できる。
 特定の文脈抜きには理解できないはずのこのフレーズは、じつは奇妙な普遍性をもって読者に訴えかけてくる。「ささいなメリットと引き換えに偽りの生を生きているのだという自己否定の感情に(かすかに)さいなまれ続ける」というのが、超越的な神信心から離脱した近代人の宿命であるからだろう。*1

(在日が)本名で生きてもこの当たり前の構造を打破することはできない。本名で生きても「偽りの生を生きる」ことしかできないのだ。(略)
 そうではないふつうの日本人もまた偽りでない生を生きているとはいえない。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080823/p1

 ふつうの日本人もまた偽りの生を生きている。そう断言すると、当然、ではきみにとって偽りとは何なのか?という問がやってくる。超越的な神信心なしにその時どきの欲望やその挫折にウロウロする以外のどんな生をあなたは営んでいるのか。あなたがどんな神学で生きようがあなたの勝手だが、一般にあなたの神学はわたしに採用されない。これが近代というものであるのだから、わたしの生を偽りと呼ぶ権利をあなたがもたないの先験的だ。なるほど確かにそうだ。しかし、偽りの生と呼ばれないからといって、偽りの生でないことは保証されていない。

野原さん曰く、「いま生きていることはどんな場合も「偽りの生」である」と*1。仏教徒でありながら現世に執着する私としては、私が自らの身体や脳で関わってきた(いる)生*2が、いくらそれらが情けなくて、或いは欺瞞に充ちたものであったとしても、「偽りの生」だとはいいたくない気がする。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080826/1219715105

「いま生きていることはどんな場合も「偽りの生」である」というのは文章がまずいが、生の全体が偽りだというのではなく、生がn次元で営まれてるとして少なくともその一つの軸はひどく歪んでしまっている、といったイメージ。
 わたしは仏教をよく理解しているわけではないが、「偽りの生」説を擁護するために、仏教の無我説をひきあいに出すこともできるだろう。

−−−名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものを完全に理解しないならば、彼らは死の支配束縛に陥る。
p176石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』isbn:4062583356 より孫引き −−−

最近の話題では、「アフガンの治安状況は悪化」という命題から自衛隊派兵を引き出すような思考法ですね。そうした日常生活でも思考法の悪を免れているとは言えない、と考える。

「因みに、どんな生でも自分だけが関わっているのではなく、誰かしらの他者とともにある。」わたしたちの生が米軍の武力とともにあるという面もあるという認識をこの1行は遠ざける効果を持つのではないか?

*1: 超越的な神信心から離脱した代わりにもっと最低最悪のものに帰依しているのが金正日一派であり、その笑うべきパロディとしてのヤスクニ派である、というのは言うまでもないとして。