松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「飢餓に苦しむ子供のためというふりをして」

    旧タイトル「モヒカン族的には」

* 飢餓に苦しんでもいないのに飢餓に苦しむ子供の為に飢餓の実体を訴え、募金をしようと呼びかける
* 飢餓に苦しんでもいないのに、飢餓に苦しむ子供のためというふりをして、募金を募り、集まった金額を競う

 前者は問題ないが君は後者だ。

http://mohican.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20050720/p2
   モヒカン族 - 妄批漢ことのは砦の決戦 - どうでもいいところをクロースアップする手法を命名してくれ

前者と後者の差は付くべきものなのだろうか?
わたしには全然分かりませんね。街頭で募金を呼び掛けている若者がいた場合、彼の存在がどの程度“飢餓に苦しむ子どものため”という大義によって占められているのかなんて詮索は、僭越であり無意味である。わたしたちが関心を持つべきは(飢餓に関心を持ったとして)カンパがどこにどうやって届けられるか、その信頼性についてだけだろう。カンパも(情報と同じく?)必ず減衰するものである。ここで彼に渡した千円がそのままアフリカに届くことはありえない。旅費、事務費、送料、人件費など副次的費用がたくさん掛かる。したがって減衰率を明示している組織の方が良心的で信用できる。

「言い換えれば、他人の弱さを他人の武器にするのはかまわない」と明記した部分をきちんと読んでくれていれば、それがわかるはずなのだが、

飢餓に苦しんでいる人、は今ここにはいない。であれば、matsunaga氏の要求は、募金者は他者(飢餓者)の透明な代理人たれ、ということだろうか。それは無理な要求である。


 飢餓とは外部世界からのノイズである。ノイズをノイズであるという理由で拒否することは、飢餓を産みだすわたしたちの社会を擁護していることであり、合理的である。