松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

生きてゐる兵隊

 戦場からの帰還兵がPTSDに苦しんでいるということが大きく報じられるようになったのは、ここ数年のことのように思われる。

番組冒頭、イラクアフガニスタンからの帰還兵で、重大な犯罪を起こした121人をアメリカ政府は実名で公表した、PTSDに苦しむ帰還兵がアメリカ社会に暗い影を落としていると伝えた。

PTSDに苦しむ帰還兵は戦場で記憶のフラッシュバック、不安感、罪悪感、様々な症状に苦しんでいる。銃を常に携行し、何か不安感を誘う出来事が起こると銃を乱射し、まるで戦場にいるように行動してしまう人もいる。今いる社会と戦場の区別ができなくなっているのだ。
http://aoisekai.blog.so-net.ne.jp/2008-09-16

 NGO「RAND」は4月初め、イラクアフガニスタンから帰還した米兵160万人のうち、約5人に1人がうつ病またはPTSD心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいるとの報告を出している。(c)AFP
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2385740/2886971


では、あの巨大な「大東亜戦争」従軍者たちにはPTSDといった問題点はなかったのかといえばもちろんそんなことはない。
(参考 http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_eda8.html


石川達三「生きている兵隊」といえば南京事件を扱った1938年の中篇小説であり、名前だけは有名だが、ほとんど話題にならない。*1南京事件をいつまでも「論争」の地平で論じていてもつまらないと思うかたは読んでみる値打ちがあるすぐれた小説だと思う。*2*3

(以下最後の部分からの引用)

 彼は深い椅子の背に頭をもたせかけて天井を仰いだ。高い天井はやや黒くくすんで、蝋燭の灯が揺れると怪しい隈(くま)が動いていた。彼は不思議にあのスパイの女の真白い肉体を幻に描いていた、胸に刺された短剣につかまってもがき苦しんでいた時のうねるような波打つような白い肉体の動きである。不意に彼はむらむらと女を殺したくなりはじめた。自分でも恐ろしいほど凶暴な胸が熱くなるような感情であった。彼にはそれが一種の神経衰弱であるかまたは鬱積した欲情のためであると思われた。
(略)
 彼*4は酒のためにかえって青くなった顔に微笑をうかべ女の顔を見ながら腰のピストルを抜いて威嚇(いかく)的にテーブルの上に置いた。

 「女を殺すなんてよくないわ」と石川は芸者に言わせている。女とは誰か?

 華やかな和服を着た若い芸者が一人、炭火を持ち酒を捧(ささ)げ下駄を鳴らしながら入って来た。扉の暗がりに立った女の姿と化粧した白い顔を見たとき、近藤は明らかに幽霊だと思った。(略)その印象は平尾にも笠原にも同じであった。

 この女がいわゆる従軍慰安婦と違うのは彼女が日本人だという点だ。しかもこの彼女は若い。なんらかの危険な状態におちいっている客に対しそれをうまく抱きかかえて機嫌を直させることなどできず、自分を守ろうとする気持ちが先走りついもっとも言ってはいけないことを言ってしまう。「女を殺すなんてよくないわ」。
 この作品は一貫して男の立場から書かれている。言い訳はすでに書かれている。つまり女だってテロリストになれるという例が書かれている。殺された第三大隊の加奈目少尉の場合だ。「彼はある露地の曲り角で、日向にぼんやりと立っている十一二の少女の前を通りすぎた。」そして拳銃で打たれ即死する。
 この作品は一貫して男の立場から書かれているのだけれど、その対立項である女はかならずしもサバルタンとして一方的に殺されていくだけではないのだ。時には敵として味方を殺す。またときにはいっぱしのことを言う。
 「女を殺すなんてよくないわ」というセリフは強力である。女だってテロリストになれるだから女だって殺さなければならない、というのは戦場の論理にすぎない。戦場から離れたふつうの社会ではいつの時代でも「女を殺すなんてよくないわ」というのは絶対的常識である。
 近藤は芸者を幽霊だと思った。だがどちらが幽霊なのか? 「生きている兵隊」とは反語である。兵隊とは生きながら殺し、そのことによって自己を半ば幽霊にしてしまうそうした存在であるのだ。

参考 紹介文:http://d.hatena.ne.jp/tentan06/20090304

追記:(6/10)
はてなでは「 また南京事件で盛り上がってますね。」みたいだ。1938年の石川達三はまったく文脈が違うので取り上げられることもない。
読んでもらうために、どこかにリンクだけでも張っておくことにしよう。

われわれが「「どっちもどっち」は歴史修正主義者への加担」と語るとき、それはレスポンスビリティを重視するがゆえに、それを放棄する人間の主体性のなさ、倫理を他人に預けてしまうことへの批判としてある。
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20090605/1244206582

 「生きている兵隊」はそうした基準をあてはめるなら中間派と評価される作品だ。だが少し奇妙な中間派である。上海から南京までの途上での虐殺行為についてはがんばって書こうとしている。兵士の小指に光っている銀の指輪というそれ自身としては汚れなきものを取り上げ、その背後にあったであろう中国婦人へのレイプ・虐殺を執拗に暗示する。一方で南京に入ってからは概ね平穏であったかのように書かれている。

どちらにも共通しているのは、自らの倫理体系の貫徹と、それを脅かすものへの敵対である。ただファクトはいずれかなので、どちらかが真でありどちらかが偽であるのはいうまでもない。そこで「どっちもどっち」は無論成り立たない。(同上)

あった派に加担するしかないともちろん私も思うわけです。で石川達三が提起する問題は何か?
実際に戦場に放りこまれてしまったらどう生きることができるか、という問いです。「人を殺すのは悪だ」というのは単なる倫理的空語などではなく実際にわたしたちの身体を形成しているのです。それをむりやり踏みにじり(他でもなく自分自身によって)人を殺せる身体にもっていく。そうであることを悪であると断言する立場で論じるのか、それともそうではなく苦しげな半ば幽霊として論じるのか?という問いです。


難しすぎる問題をメモとして書いてしまった。

戦争文学リンク

http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2009/05/090516.html
ノムさんの時事短評 伊藤桂一氏の戦記文学

日本には素晴らしいものがあった、素晴らしい人物がいた、それを知ったことは本当に歓喜でした。それから、私は「昭和時代」に関する本を多く読むようになりました。それは必然的に、「戦争」に繋がっていきます。

*1:生きてゐる兵隊 ISBN:9784122034570

*2:わたしは今回初めて読んだので偉そうに言う権利はない

*3:「生きている兵隊」が戦後あまり評価されなかったのは、石川が左翼でなかったからかもしれない。彼が左翼だったならこの作品は昭和を代表する名作として大きく顕彰されたのではないか。

*4:仮名にした