松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

穂積八束氏の如きが)偶々「国家統治の主権は万世一系皇位に在りて変わることなかりしは吾が国体なり」と云うかと思えば忽ち「維新革命は主権を回復せる者なり」と論ずる如き何の拠るところあるやを解する能わず。
(p216北一輝国体論及び純正社会主義みすず書房

上に書いた敗戦における国家の連続/不連続の問題は、もちろん明治「維新」の時にもあった。万世一系/維新の問題である。ちなみに維新を革命と言わない(言えない)のには思想史的理由があります。何らかの理念を押し出しての「革命」の方が切断を説明するには都合がよい。戦後の切断を支えた「平和と民主主義」は本物の理念ではなかったようで、60年で効力が薄れつつある。だからといって、日本は日本であるという同一性の論理に回帰することは歴史が(例えば南太平洋の島で無意味に餓死した兵が)許さない。と私は思う。