松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

二・二六事件と中国侵略

 村上一郎の『北一輝論』という小さな本の最後に「私抄“二・二六事件”−−「革正」か「革命」か?−−」という文章がある。フラグメンテとされておりきちんとまとまったものではない。二・二六事件のことも戦争の歴史もよく知らないので難しかった。1970刊行の古い本であり、ここで批判の対象にしている『昭和史』という本はさらに古い。だが根本的な処では(世間の常識というか偏見は)あまり変わっていないのではないかと思う。少し長いが貼ってみた。

 いったいに、戦後の社会科学者の間における解釈では、五・一五事件血盟団も神兵隊も二・二六事件もこみにして、日本型のファシズムとしてひとくくりである。それのみか、ニ・ニ六事件や五・一五事件の将校も、太平洋戦争への道を歩んだ「省部幕僚」もこみにされてしまう。皇道派と統制派という色分けをする者はあっても、それは一種の勢カ争いというように解釈され、当時の新聞記者の感覚以上には進んでいない。
 たとえぱ、満州事変以後の頃、「国内のゆきづまりを打開し、日本の危機を救うためには、“満蒙問題の解決”とならんで“国家改造”が必要であるとの見地から、軍国主義化の先頭に立ったのは、民間右翼とむすんだ青年将校であった」とみなす「昭和史」(新版)の著者、遠山茂樹今井清一藤原彰らの解釈は、非常に浅薄なところを含んでいる。この書では、その青年将校として、海軍の藤井斉、陸軍の菅波三郎を中心人物としてあげているが、この二人を中心とするグループが、「軍国主義化の先頭」に立ったものとは、どう考えても解釈できそうにない。また「国家改造」を、「満蒙問題の解決」と「ならんで」要求したのかどうかも、すこぷる疑問である。「満蒙問題の解決」をもし武カ解決という意味にとるなら、藤井斉にせよ菅波三郎にせよ、いずれも武カ侵略主義者や植民主義者であったという証拠はない。彼らが考えた「国内改造」は、満州のみならず、すでに日本が領土内に入れていた朝鮮の武カ支配をも、なろうことなら避けて、国内でやってゆけるような日本の改造である。だからこそ「国内改造」は「昭和維新」であったのであり、満蒙の武カ占有というようなプログラムを第一義約にもつものであったなら、けっして「維新」とよばれることはなかったであろう(「支那を救う」という言棄はニ・ニ六より前に五・一五で現れている。が、これは『昭和史』のいうニュアンスでない)。
 戦後「進歩的」社会科学者の旗手である『昭和史』(新版)の著者のような論者たちには、いわゆる「軍部」の「革新政策」も、青年将校の「維新」運動の推進も、同一のものとしか解せられていない。また、これはたいせつなことなのだが、権藤成卿のような農本主義者の運動(自治農村協議会なぞ)も、社会ファシズムの運動も、くずれた社会民主主義者の運動も、『昭和史』(新版)ではたんに並列され、同一視されている。
 「つらつら思うに今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは蓋(けだし)武断政治を措きて他に道なし」と、永井荷風が昭和六年十一月十日の日記に記したこころも、わたしは省部官僚による「軍部」的な「革新攻策」ヘの期待ではなく(そこに真の「武断」はない)、けっして永続はすることのない「維新」断行への渇望の庶民的な表白であったと考えたい。省部幕僚・官僚の形成する「軍部」を荷風は終始嫌悪した。
 満州を攻略した軍人ならぴにその周辺の官吏・民間人・浪人たちの間にも、ただ単に満州を領有すれぱよいという考えがあったのではなかった。石原莞爾がまずはじめは満州の領有=軍政施行を考えており、それから満州建国=王道楽土の思想に転向するのはドラマティックである。そしてしかも、石原らの理想、理念は、その後の日本権力者の意向によりふみにじられ、建国=王道楽土の思想は一掃され、石原派は追われる。
 満州がまず武カ占領され、軍攻をしかれねぱならぬという関東軍の考えから、実際占領してみての人民の能力の高さ、抵抗の強さ(それまでもっと低く見ていた)におどろいて、石原莞爾の「転向」に急カーブしたいきさつは、わたしらの編集した『支配者とその影』(「ドキュメント・日本人」第四巻)で佐々木二郎が語っているとおりであり、「王道楽土」の理念が日本の中央権カによってくずされ、石原派が追放されるくだりは高橋和巳の小説「堕落」にくわしく描かれている。満州国を、真実のカイライ国家(正にそれのみの)と化したのは、「王道楽土」の理念に生ききろうとした大陸浪人や石原派の軍人や、その周辺の民間人・官吏たちではなかった。満州を小さいコンミューンの単位から組み立ててゆくことを嫌悪し、そういう方向を弾圧し、中央集権を強カに推進しようとした日本の権力と独占資本とが、満州国をまったくのカイライと化したのである。これは日本の「維新」を推進しようとする純真な青年の支持しない方向であった。
 満州の産業を財閥の手にゆだねると同時に、全土に憲兵の眼を光らせ、「憲兵政治」を確立する東条英機関東軍参謀長)らの政策は、また当初の「王道楽土」の理念をふみにじるものであった。石原莞爾東条英機との宿命的な対立も、この満州の支配の仕方において、まず開始されたのである。石原も一個のファシストであったが、彼は農村主義的ファシストであり、東条は、自分一個の思想には欠けたが、大ざっばにいって社会ファシストの上に戴かれた。
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 二・二六事件がもし成功していたならば−−「成功」というのがどういうことかはむつかしいが−−万が一にも日中事件はおこらなかったか、ないしおこっても小規模な戦闘のみで解決せられたろうという予想は立つ。多くの社会科教科書や左翼歴史の解説書が、二・二六事件を戦争体制強化のためのクーデターであるかのごとく書いているのは、まったくの誤解である。北一輝にも磯部浅一にもシナ侵略の意図はなかった。対米戦争の意図もなかった。ソ連に対する掣肘は考えられたが、それは「支那を救う」方向だった。
(p169-172『北一輝論』村上一郎 三一書房