松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

“愛国心=赤っ恥”宰相

愛国心=赤っ恥”宰相である安倍首相がなぜ退陣せずにおられるかというと、それはわたしたち国民にも責任がある。
わたしたちが私たちである根拠は愛国心の存在であるという神学を肯定する改正教育基本法は、一部の激しい反対にもかかわらず承認されマスコミや国民は反対の意志表示をしていない。
アメリカからの慰安婦問題決議はわたしたちを一瞬とまどわせた。しかしわたしたちはすぐに「原爆」や「イラク戦争」というアメリカのスキャンダルを思い出し安堵した。悪いのは日本だけではない。アメリカに日本を裁く権利はない。基本的人権から最も遠い国家である中国にそれがないのはいうまでもない。
「日本有罪」説の上に国家は成立しえない。わたしたちはわたしたちの愛国心を肯定する。安倍首相はその命題を法として*1成立させた。
もちろん、その背後には米国の承認があったのだ。ところが今回の慰安婦決議である。わたしたちがわたしたちの愛国心を肯定することは、米国によって拒否された。
さて、日本人の諸君よ、どうする?

*1:教育基本法改正。

自爆史観

 安部晋三たちの錯誤は、自分がアジア人であることを忘れている点にある。「遅れた」中国や韓国に向き合うパートナーとしては、米国は日本人をあたかも白人であるかのように扱ってくれたであろう。しかし中国や韓国に対する日本の絶対的優位なぞ20年前からどんどん失われているのだ。米国人にとってアジア人とは、「遅れた」者であり啓蒙の対象である。*1 アジア人というものはタリバンがそうであったように、個人の自由を尊重せずとりわけ女性の人権に無理解であるそうした存在である。
 今回安部晋三たちは、アメリカ人のそうした偏見の枠組みにそった反応を自ら演じてしまった。彼らの「啓蒙」は予定通り出動せざるをえなかった。即ち、自爆史観と言われるゆえんである。

*1:いうまでもなくこれは実際の日本人が遅れているかどうかとは関係ない

天皇免責のための儀式

さて、戦後日本の枠組みを決めたのは東京裁判である。

東京裁判の最大の政治的な結果は、東條英機をはじめとする当時の日本政府および軍の指導者に戦争責任を集中させて、天皇を免責したことでした。法廷で東條が、日本の高官が天皇の意思に反する行動をすることはありえないという趣旨の発言をしたとたん、天皇に責任が及ぶのを避けるための工作が行われたことはすでによく知られています。その結果東條は、天皇は彼の進言でしぶしぶ開戦に同意したと証言することになったのですが、これはじつに象徴的なことでした。
高橋哲哉 p107「もう一つの「東京裁判史観」」現代思想8月号 isbn:9784791711673

戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したいと思います。
−−昭和天皇 マッカーサー元帥との第11回会見にて
(同書 p105)

「悪かったのは一部の軍国主義者であって天皇に責任はない。戦後日本で広く共有されてきたこの認識は、東京裁判の構図そのものです。」なぜそれはわたしたちにかくも広汎に受け入れられ、むしろ自然な事として忘却されるに至ったのか? この問いに答えるのはさほど難しくはない。
問題はわたしである。全体主義下の総動員態勢での戦い。皆が参加した。多少とも指導的立場にあったものの責任は存在する。インテリはすべて責任があるはずだ。しかしそうであればあるだけ「悪かったのは一部の軍国主義者であってわたしに責任はない。」と思いたいものである。天皇免責はまさに大衆(ちょっと知的な)のそうした無意識と完璧にシンクロした。
そして、輝かしいものとしての戦後憲法戦後民主主義が新しいモードとして、それに従っていれば保身できる価値として登場したのだ。
「後代の人々の翹望する絶対平和の福音書と目さるべき至高の価値を有する」極東国際軍事裁判公判記録が、純然たる体制派、保守派によって刊行された事情をわたしたちは確認しておかなければならない。(下記参照)
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/Tokyo2.htm#tokyokohan


アメリカは天皇を含む日本の旧支配層と取引する中で、戦後体制を作り上げていく。
天皇憲法1条)とともに三位一体をなすと考えられるのは次の二つ。
−−憲法9条。日本の軍事的無力化。軍事的にアメリカの従属下に置く。
−−巨大な基地をすでに建設済みだった沖縄の非返還。
沖縄については、まさに天皇裕仁が「軍事占領を続けるよう希望する」とメッセージを出している。

1947年9月、当時の天皇のご用係だった寺崎英成がGHQのシーボルトに「琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解」を伝え、それをシーボルトマッカーサー国務長官マーシャルにも伝えました。その内容はこうです。(1979・80国会議事録)「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう昭和天皇は希望する。天皇は長期租借による、これら諸島の米国軍事占領をめざしている。天皇の見解では、日本国民は長期租借によって米軍に下心がないことを納得し、軍事目的のための米軍による占領を歓迎するだろう。さらに天皇は、沖縄および必要とされる他の島々に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借(25年あるいは50年あるいはそれ以上)の擬制(主権の実態は米国)に基づくべきであると考えている。天皇によると、このような、占領方法は、米国は琉球諸島に対して永続的野心を持たないこと*1日本国民に納得させ、これにより他の諸国、特にソ連と中国が同等の権利を要求するのを阻止するだろう。
高橋哲哉 p115「もう一つの「東京裁判史観」」現代思想8月号 

裕仁から一方的に発言したように書いてあるが、「長期租借」など実務的レベルのことを突然言い出すはずもなく、何度かのやりとりがあったのであろう(と思う)。傀儡の面目躍如。

*1:ママ

ゴマカシの上の戦後日本

(1)
さて最近のこのブログでもいくつかの話題を扱った。
「原爆投下は戦争犯罪である。」http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070730#p1
という命題は日本人にとってはほぼ自明である。一方、米国人にとってはそうではない。日本人は「ヒロシマナガサキ」(の被害)を世界に訴えると言い続けたが、それは「原爆投下は悪である。」ことを米国人に納得させることを直接は目的にしなかった。そうではなく「(自らが)許す」こと、戦争と対立のない世界を願い自ら軍備を捨てるという思想を確立することが重視された。
この「許す」という思想は確かに深みがあることは否定できない。*1
しかしながら「許す」という思想において、日本の現在に起こっていることは、「侵略/抵抗」という自他の緊張間の崩壊である。「原爆投下は戦争犯罪でない。」と主張し続ける米国人を日本人は直視せず、話をそらし別の話で楽しく歓談することを選んだ。
で、今回の慰安婦決議だ。「話をそらし別の話で楽しく歓談する」といった日本風の流儀を米国が取らなかったことを日本人は怒っている。だがそれは自業自得というものだ。「話をそらし別の話で楽しく歓談する」などという文化にはまったく普遍性はないのだから。*2


(2)
日本は非核三原則(ひかくさんげんそく)、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」を、日本の国是としているという。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港する米軍艦船が核兵器保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる(上述。ラロック証言より)。これについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としているが、これは逆に「協議を申し出るか否かは米軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%A0%B8%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87

全くの嘘の上に日本の軍事戦略は成立している。誰のための国防なのか?米軍の利益と国民の利益が相反するとき政府は国民の側に立つのか?これがはっきりしないということは、日本は国民主権の国ではないということだ。ご苦労さん。

*1:パレスチナについて何も知らないのに意見を言えると勘違いしている人が日本の「許し」論者の中に多すぎる。と言いながらも、似たようなことを思わず書いてしまうのだった・・・侵略者がやって来たからといって銃の訓練、発砲を行うことが数十年やっても必ずしも良い結果に繋がらなかったパレスチナの例、もある。侵略に対して抵抗の意志を失わず、まず主張しPRし一方で銃の保有訓練なども行っても直接の衝突はできるだけ避けるというのが賢いかもしれない。パレスチナと身ぐるみつきあってない人は意見は言うべきでないのだが。

*2:むろん東洋にもない

赤っ恥!

 安倍ちゃんとネット右翼はその本質において、赤っ恥である。なぜなら、日本(=「特定アジア」差別)にしかその根拠がないので、国外で言論する根拠が全く不在なのである。であるのに自分の言説がアメリカでも通用すると思っている。世界に外国があるということを知らないわけだ。
まさか、そんな馬鹿な!?

 先日のisa訳『脱亜論』は、当時の時代状況についての知識を全く持たない人にも諭吉の真意だけは伝わるように、かなり強引に現代に引き寄せて訳したものである。ここで言う真意とは、つまり、根拠のない「アジア的ロマン主義」は捨てなければならない、ということだ。今日でも特に「左翼」の抱いているような「アジア連帯」などは幻想である。少なくとも大陸が大陸であり、半島が半島である限り、それは仮想敵として警戒する相手ではあっても、連帯を組む仲間ではありえない。日本が連帯すべきは欧米の文明国であって、大陸や半島ではないのだ、と。これが諭吉の真意であり、諭吉自身の深い反省に基づいたものだった。

大陸が大陸であり、半島が半島である限り、それは敵だと。では大東亜共栄圏はその根拠から間違っていたのですね?

(略)
そもそも、まだ文化人類学など成立していない時代である。シナ人がシナ人であり、朝鮮人朝鮮人であり、そして日本人が日本人であるという、その民族としての「同一性(アイデンティティ)」を成立させているはずの、諸民族の基礎的な「差異」を、当時の「学問」はまだ対象化出来ていなかった。したがって、当時にあっては、この「差異」は、現実政治や実際の事件に触れる中で学んでいく他はないものだった。それはまだ、「学問」の外の経験的なものに留まっていたのである。

文化人類学を学べば、支那民主化出来ないことが判明すると。(笑)

さて、現実に戻る。ここ二十年ほど、日本は右翼も左翼も中道も「アジア的ロマン主義」の虜になっていたのではないかと思われる。旧田中派による中国もうで、旧社会党による韓国もうで、果ては「北」との国交回復などという愚挙中の愚挙! 左翼的な言い方をすれば、これらの国との「同一性」など幻影である。もっともっと「差異」を見なければならない。そして「差異」をしっかり認識すれば日本の進路も見えてくる。諭吉の言う「脱亜」が極めて現代的な課題であることも。
http://suntetu.iza.ne.jp/blog/entry/253103

>>左翼的な言い方をすれば、これらの国との「同一性」など幻影である。
「北」との国交回復などと言っているのは偽左翼です。
北朝鮮人民にはヒューマニティ「同一性」が存在するので、契機さえあれば(日本を含めた数国が同意すれば)すぐ崩壊します。

丁寧に検討してみたが、無意味だった。今回のアメリカからの「攻撃」にどう向き合えば良いかが、書いてない。