松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

〈あいまい〉ともみえる多くの設問の捨象

さて柄にもなく、ケプラーなど(についてかかれた本を)読んでみようとしたのは、松下の「科学」という短文を読んだせいである。*1
http://666999.info/matu/data/kagaku.html#kagaku
この文章は何を言っているのか。


まず山本義隆の本のテーマを長い一行で要約している。

ケプラーの重力概念はニュートンにより厳密な数学的原理へまとめられていく、これは教科書どおり。重力を神学原理の中でとらえる点においてケプラーと同様にニュートンも中世の余波を受けている、ここから新の革新者は二つのパラダイムの両方を生きざるをえない、というテーマを引き出すことができる。野原の5/14はそれを展開している。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110514#p1
 それに続き「現象から帰納して説明するのが対照的である」とあるのだが、ここよく分からない。対照的というが、ケプラーニュートンも現象から帰納して説明しているのではないか。求められた重力(運動方程式)を用いて「演繹的に現象を(地上の現象も)説明する」ことまで進んだ*2のが、ニュートンの画期だった、と思うのだが。
その後、フランス啓蒙主義のなかでニュートン物理学は全く異なる関係性の中でとらえらる。啓蒙主義は、科学の機能を近代的認識や技術との対応において(とらえ)、重力を関数概念として抽象化する。それを私たちは普遍性と評価する。
しかし「普遍性」を素直に肯定していくというものと、松下の思想は違うようだ。「科学理論の完成は各時代の〈あいまい〉ともみえる多くの設問を捨象することによってなしとげられるものなのか、という著者の悲哀を帯びた後記の呟き」に注目していることから、それは分かる。


「(科学者には)科学者の教育の最後の段階まで、独創的な科学文献の代わりに教科書が系統的に与えられている。この教育技術はパラダイムがあるから可能なのである。そのパラダイムへの信頼を教え込まれ、それを変えようと志す科学者はほとんどいない。(略)もちろんこれは、おそらく正当神学を除いては、他のいかなるものよりも狭い型にはまった教育である。」というトーマス・クーンの文章を山本は後書きで引用している。
現在の科学の根底にある完成した体系としての力学理論ではなく、一人の学者の世界観の矛盾の苦しみの中から生み出されていく理論とその受容のドラマを山本は書いた。完成した体系を教える教科書とは別のものが必要だという信念によって。
松下は山本に全面的に共感しながら、最後に現存の科学からもう少しずれていく可能性を(むりやり)示唆しようとする。


重力の本質をマルクスが「ドイツ・イデオロギー」の序文で用いた方法と逆に、既成の社会や自然以外に求める志向があったことを、私たちはケプラーが残した設問の一つとして(あえて)受け止めていきたい。松下はそう言っている(ようだ)。
ドイツイデオロギー序文の方法とは?

人が水に溺れるのは重力の思想にとりつかれているせいだ、と思い込んだある男がいた。
この表象を人の頭から叩き出せば、水難から逃れることができると、男はふれ回った。
(ドイツ青年ヘーゲル派に対する批判)*3

トーマス・クーンの教科書批判とマルクスによる批判は、大学批判として重ね合わせることができる。ある特定の社会の矛盾の構造を精緻に分析することは社会科学の業績となる。それを社会に還元すべきだと問われれば「ある表象(イデオロギー)を人の頭から叩き出せば良い」と答えておけば良い。しかし実際には現実社会は巨大過ぎる矛盾によって耐えがたいまでに抑圧されている人々がいる。彼らを救えないという無力さを自発的に切り捨てていくことでしか、論文を完成させることはできない。そうした問題意識がおそらく松下にはあっただろう。
さてその上で。
「その方法」とは逆のやり方で、「重力の本質を既成の社会や自然以外に求める志向」とは、どういうもの、だろうか?


マルクスは社会の話をしているしケプラーは自然の話をしている。領域が(学部が)違うから話は通じないとしか我々は考えられない。しかしそうではない。
ヘーゲルは理念や概念が人間たちの現実的な生活、実在的諸関係を規定するとした。ここから青年ヘーゲル派は思想(表象)を変えることにより社会の矛盾から逃れることができるとした。マルクスは逆に現実的な生活、実在的諸関係が理念や概念を規定するとする。それは良いのだが、社会の諸関係を分析するだけでは、ケプラーニュートンが歴史に与えた大きな影響を汲み尽くすことはできないのではないか。
無味乾燥な物理学公式としか私たちに見えないものが実は、中世以来の伝統的神学やそれに依拠する支配者たちにとっては致命的な危険思想だった。
自然(天上界)とは、ケプラーの時代「第五元素からなる均質で不変の世界」だった。ある絶対的跳躍によってケプラーは重力の本質をその不変の世界とは違うパラダイムに見いだしていった。この社会の中で解を求めようとどれだけあがこうが絶対に答えが出ない場合がある。私たちの社会常識の中にその答えがないということは、、実は、別のパラダイムを設定すればその中でその答えを見出すことができるはずだ。
松下がケプラーから学ぼうとしたのはそうしたことであろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110504#p3 で

*2:p75山本本

*3:文章改変← p15『ドイツイデオロギー岩波文庫新編輯版