松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「もっと懲らしめなければいけない」

といま、TVで湯浅誠さんが言っていた。
ワーキング・プアといわれるような人びとに対し、第二のセーフティネットなどの施策が取られようとしている。しかし必死で働いて生活保護費以下の人たちのことを考えるならば、黙って金を貰っているあいつらのことは「もっと懲らしめなければいけない」、と考える人たちがきっとでてくるだろう、といった話だった(不正確だが)。
「もっと懲らしめなければいけない」という圧力はわたしたちの社会でひどく当たり前のベクトルになったようだ。刑事事件の被疑者のような悪い奴は「もっと懲らしめなければいけない」。不法滞在「外国人」は悪い奴だから「もっと懲らしめなければいけない」。公務員は民間に比べれば働かず愛想も悪いので「もっと懲らしめなければいけない」。等々、きりがない。
誰が「もっと懲らしめなければいけない」と言っているのか。明言されることは少ないが誰もがそう思っている。
ワシだって好きで働いているわけじゃない、なけなしの知恵をしぼって必死で働いているんだ、それをお前らは仕事もしないで権利ばかり主張して云々。そういわれたら気持ちは分かると返さざるを得ないが、本当にそうか。それだけで、自分に直接関係ない他者、自分よりも弱い立場の他者に対し「もっと懲らしめなければいけない」と思うものだろうか。例えば上司の横暴に対し正当な抗議ができないことの敗北感を、むりやり第三者に振り向けているだけではないのか。
大衆がそんなことを言っても、結局自分の首を締めることにつながるだけだろうということは、容易に想像できるにもかかわらず、「もっと懲らしめなければいけない」という声は大きくなっていくばかりだ。