松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

アウシュヴィッツは語り得るか?

 id:hokusyuさんやid:apemanさんは本気で怒っておられるようだが、正直に言って、その怒りがどういうもの なのかなお私には分かりづらいところがある。一つの食い違いは何を核心と考えているかにあるのだろう。


 国家あるいは政治的社会は自らをある限定として提示することがある。

ドイツ・オーストリア・フランスなどでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されている。ドイツでは1994年から「ホロコースト否定」が刑法130条第3項で禁じられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88#.E3.82.A4.E3.82.B9.E3.83.A9.E3.82.A8.E3.83.AB.E3.83.BB.E3.83.91.E3.83.AC.E3.82.B9.E3.83.81.E3.83.8A.E7.B4.9B.E4.BA.89

 法律の条文である以上それは明確に規定され、誰が読んでも同じ意味を持つものでなければならない。


しかし、一方で、アウシュヴィッツの本質は言表不可能性にあるとする、一群の言説がある。

 ・・・それは、取り逃がされたり、新たに忘れられたりすることなしには表象されえないものなのである。なぜなら、それはイマージュや言葉にそむくからだ。したがって「アウシュヴィッツ」をイマージュや言葉で表象することは、それを忘れさせるひとつのやり方なのだ。
p67 リオタール「ハイデガーと「ユダヤ人」」isbn:4938661489

 このような断片を引用することと、「ホロコースト」=PC(政治的正しさ)を考えることとの間には、かなり落差がある。

3/22にも引用したが「偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されてもおかしくなかった者は、生きていてよいのか」と言っても、生きつづけることはできるとしか答えられないのが常識の立場であろう。ではこの文章は何を意味しているのか?


約40万人のユダヤ人が殺されたヘウムノ収容所からのわずか二人の生還者のうち一人がスレブニクさん。映画『ショアー』の冒頭にはこの人が登場する。戦後イスラエルに住んでいた彼は映画監督ランズマンに見出され数十年後にその収容所跡を訪ねる。

 彼を収容所の生還者と呼ぶことはできません。戻ってきた人あるいは幽霊(revenaut)なのです。なぜなら、彼はあそこにいるはずのない人なのですから。(ランズマン)
(p68 『戦後責任論』isbn:4061597043

 それでもって、高橋哲也は「「亡霊」として戻ってくる記憶、それが「戦争の記憶」にとって決定的に重要だ」という。*1
戦後、失われた秩序を再建しようと人々は必死で努力する。そのただ中に帰ってきてしまう男/女がいる。戦後の時間を持たず戦争の記憶だけをもった人が。そのような亡霊、は、「まさにアナクロニックに戻ってくる。人々が忘れたころに、忘れようとしているときに(略)戻ってくるものなのだ、と。」*2


http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050824#p1でも、デリダ(解説本。林、廣瀬)の 「また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。云々」という文章を大江健三郎の「あまりにも巨きい罪の巨塊」というフレーズとの関連で引いておいた。


「絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。」ともデリダは言っているのだが、これを強調することはマズイと考えるのはあながち間違っていない。
裁判手続きほど厳格ではなくとも、対話的やりとりに耐えられないものを事実と認めてもらうのは困難である。「アウシュヴィッツ」について言葉で表象することができないなら、それによって人を裁くことができなくなってしまう。

造形大での市田良彦氏のレクチャーへ。ポストモダンを「新しいことはない」「決定不能性」と定義し、そこからポスト・ポストモダンとでも言うべきその後の状況が、リオタールの転換を指し示しながら提示されていく。(リオタールのユダヤ主義化や80年代後半からのレヴィナス人気)。そこでは、「決定不可能性」が「他者」や「崇高」という概念に結びつきつつ、ポスト・ポストモダン=「倫理」ではないかと述べられた。

簡単に言うと
「決定出来ない」(「表象できない」)
→「決定してはいけない」(「表象してはいけない」)・・・倫理の問題
への変化として捉えられる。具体的には、クロード・ライズマン『ショアー』における非ホロコーストの表象不可能性と、アウシュビッツの4枚の写真をめぐる表彰してしまっていいのかという問題として提示される。
さらにここでは〈他者〉(表象不可能性)をめぐって、政治と美の問題が〈倫理〉という点において出会うとされる。

しかしその〈他者〉を設定するということは、我々という公共空間とその外部として排除するという理論であり、ある意味で非常に古典的な共同体感に繋がっていくことになる。
http://shinkiti.exblog.jp/8847780/

 ちょっと不用意な引用になってしまったが、(表象不可能性)において〈他者〉という幻の原点をどこかにしっかり措定してしまうなら、それはやはりマズイ。


「「アウシュヴィッツ」という非日常を特権化することも、「アウシュヴィッツ」と無縁な日常性を特権化することも、ともに日常もしくは非日常の「物神崇拝」におちいってしまうだろう。」と細見和之は述べている。*3
(表象不可能性)について語る権利を獲得するためには、表象可能なもののすべてを(ざっと)確認する必要があるのかもしれない。

*1:p79

*2:p80

*3:アドルノ」p186 isbn:4062659158