壁と汝と どちらが重いのか?
世界はつねに私によって感じとられ解釈されるだけのもの、それ以上のものではない。俺は他者をつねに自己に引受けともに生きようとしている、きみとは違って、とあなたは言うかもしれないが、それすらもあなたが規定するところのあなたの世界構図にすぎない。
「「《イスラエル》=《壁》で、《パレスチナ》=《卵》だ、というのはすぐ思いつくことだが、そんな単純なことだけを含意したいのではない」という力点を持っていることである。http://d.hatena.ne.jp/tmsigmund/20090220」と論評することにより、壁はあなたに評価されるものにすぎなくなり、自己を圧倒的に迫ってくる圧迫感を失ってしまう。
「卵と壁」という比喩は、卵が何を発語しようが壁によって押し潰されると告げる。自己の至上性のなかでぐるぐる回ることしかできない言説こそが、卵に比喩されてしまう。根底からの批判。あるいはそれを卵とよぶことはむしろ神の捏造であるだろう。逃げることが不可能な悪魔の比喩である。
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比喩と戯れるのは禁止とお触れを出そうとした人がいる。しかし「比喩と戯れる」とは何かを定義するために元の文章と無限回の対話をする必要がでてきて、禁止は不可能となった。
*1:脱出口は http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090222#p3に示した。