松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ホロコースト(生け贄)という言葉

 受取人に与えられた命令として意味が受け取られるようなそういう死を、リオタールは「美しき死」と呼ぶ。日本の特攻隊とかが典型的ですね。「……のために死ね」、そうすれば君は死なないだろう、という犠牲の経済(エコノミー)。わたしたちの「靖国」というものが日本国家を支えるエコノミーの一部になっているのは周知のとおり。
 さて、アウシュヴィッツでもまた死が命じられた。しかし「(お前は)死ね」と命じられたわけではない。「彼に死を」という殺人命令があっただけだ。*1

この二つの「死ね」は絶対的に質が違うため、「アウシュヴィッツ」を「美しき死」、さらには供犠の燔祭−−ユダヤの民を、モリヤ山におけるイサクになぞらえる−−と呼ぶような真似はレトリックの悪用に他ならない。p230

 これには註がついている。
が下記のasyura掲示板「戦争屋は嫌いだ」さんの文章の方が、(反ユダヤ主義的臭気を差し引いて読めば)わかりやすいかもしれない。

旧約聖書(創世記)を読んだ人なら先刻ご承知のように、ユダヤ民族の直接の父祖ともいうべきアブラハムはある日、神(エホバ)から「一人息子のイサクを山の上でホロコーストしろ。」との命令を受け、指示通りにイサクを祭壇の上で殺して燃やそうとしたその刹那、「ストップ、ストップ、お前の信仰の深さはよくわかった。愛する一人息子さえ疑問ももたずに犠牲にするその覚悟は天晴れだ、もうイサクを殺して燃やすには及ばない」との天の声があって、めでたしめでたしという例の話である。このエピソードには身内(一人息子)でさえ、偉大な大義(神の意志)のために犠牲にする覚悟を持っていることの美徳が描かれている。旧約聖書の中でも最も有名なこの逸話の存在ゆえに、「ホロコースト」という言葉には常に「身内でも犠牲にする精神」という概念がつきまとうことになる。

ところでヨーロッパにおけるユダヤ人の受難が、イスラエル国家を建設する際に大きなテコとして利用されたこと、さらにイスラエル国家建設にはロスチャイルド財閥の巨大な利権が絡んでいたことはよく知られている。従ってユダヤ人の受難はイスラエル国家建設(ズバリ言えばロスチャイルドの金儲け)、という文字通りの偉大な大義のために貢献した、ということができる。これは見方を変えれば「ユダヤ財閥の頂点にあるロスチャイルド家(ドイツ系)が、偉大な大義イスラエル国家の建設=自らの巨大な利権)のために、身内(下々のユダヤ人、特に東欧系アシュケナージ)を犠牲にした。」ということに他ならない。ちなみに初期のナチス関係者は「ユダヤ人を欧州から追放する(この時点ではまだ抹殺ではなかった)」という目的を共有するシオニストロスチャイルド)とは一種の協力関係にあったくらいなのである。
http://www.asyura.com/0401/dispute16/msg/285.html

 キルケゴールデリダの2冊の本によって知られる「例の話」こそが「ホロコースト」そのものだと、わたしもはっきりと認識していなかった。
で、この岩波書店の本の註(p243)でははっきりこう書いてある。

 ナチスによるユダヤ人大量虐殺を、全燔祭で捧げられる供物を意味する「ホロコースト」と命名することは、殺されたユダヤ人たちを神への生け贄として捉えることになり、彼らの死を「美しき死」にする危険性がある。

 自分だけの利害ならむしろパレスチナから出て行ってもいいのだが、たとえ強大な防護壁で自らを守らざるをえないような敵に囲まれながらも、「彼らの死」を無駄にしないためには、パレスチナイスラエルを死守せざるをえない。
 イスラエルが今回だけでなく、国際社会からどんなに非難を浴びようと大量殺害と抑圧を止めようとしない、心理的原因には、このような「神との約束」に縛られた義務感がある。強大な防護壁で自らを守らざるをえないような敵に囲まれているという自己認識が、圧倒的な他者に対する暴虐を自らに許してしまう。
 ホロコーストという言葉は、このような暴力につながる認識の布置を支えるものなので使わない方がよい!

ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

*1:731部隊で使われた「マルタ」という言葉を想起するならば、彼はすでに人間と思われていなかったかもしれない。