松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

さまざまな文字弱者を 排除し抑圧している。

日本語ブログはいろいろあるが、読むべきは、私にいわせればこれひとつ。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/

とある方が明確に断言されているのを数時間前に読んだばかりの、hitujinosanpoさんからTBいただいた。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080625#p1
うえの記事は、日本語から 漢字を とりのぞこうとするのは、排他的なナショナリズムだという内容です。
こうした主張は、子安宣邦(こやす・のぶくに)『漢字論-不可避の他者』岩波書店に かいてあるはなしです。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080625/1214403365

と言われてしまった。子安先生は関東居住なのに大阪でも毎月市民講座を開講されている〈ともに学ぶ〉ことへの愛の溢れた方です。わたしは数年前から大阪での講座に参加させていただいて、親しく謦咳に接す(けいがいにせっす)る機会を得ております。
 いやどうも先生に言及すると急に文体が変わってしまって変だ。だいたい玉鉾百首なんて戦後は誰も読まない本を買ったのは子安先生の影響だし、『漢字論-不可避の他者』も一応読んだはずだ。でわたしが無自覚に子安を反復していても恥じることもない。


「漢字を 異物として みなして、それを 排除する」思想を問題にしてはいますがそれよりも。
中国語と明確に区別された日本語というものがあるしなければならないという深い深い自明性を疑いたいという点にわたしの本意はあります。


「漢字が うみだす排除」に関連する、石川氏による文章を引用しておきます。hituzinosanpoさんとは違う問題意識です。

 文字の最大の災厄は、そこにではなく、文字が生産物であるがゆえに、しばしば言葉の媒質と完全に化すことがなく、文字自身が事物の全面に像などとして立ちはだかることがあるというという問題である。
(略)
つまり、漢字そのものが現実であるかのごとくふるまう文字の物神化も起こる。
p42『二重言語国家・日本』isbn:4140018593 C1381

漢字は、文字表記として ふくざつすぎるために、さまざまな文字弱者を 排除し、抑圧している。

もちろん、漢字を なくせば 文字弱者が いなくなるわけでは もちろんない。だが、おおきく改善することが たくさんある。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080625/1214403365

 hituzinosanpoさんの主張はこのとおりなのですが、これを読んでわたしは頭を抱えてしまった。そんなことは考えてもみなかったからです。
 一行の文章のなかにかすかな〈神の声〉みたいなものは存在するのだと反時代的なわけの分からないことを断言しつつ*1それを聞き取ろうとするのが、この間のわたしの方法であり、その立場からは言語からコミュニケーションという側面をいったん削ぎ落とすことはしてもかまわないことと考えていたからです。
参考:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080606#p1 以下断続的に続いている「不確定な論文を読む」を読むシリーズ
 普通の読者すら切り捨ててよい・・・ 「さまざまな文字弱者」という方たちのことなど考えてもいませんでした。
 しかしながらブログを書くことは、そこにどんな読者が登場してわたしの書いたものを読んでもよいとすることなわけで・・・うーん、なかなかこれは大変なことなのかもしれない。
 とても刺激になったコメントでした。ありがとうございました。

*1:宣長の神とはとりあえず無縁