松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

翻訳と肉体

といったところで、実はあらゆる言語行為はすべて翻訳の過程を経ている。たとえば一つの言語内でも人は言葉でものをあらわそうとしたら、そこにあるのは無数の「解釈から表現へ」のろ過作業を重ねているわけだから。そしてその最たるものは、言葉、とは肉体の翻訳の試みであるのだ。あらわされた言葉は肉体にかえって、またろ過される。吟味され、確認され推考され、またあらわされる。これらの絶えざる繰り返すのが言語行為の原点なのだ。肉体による認識を共有可能な概念としてあらわし伝達しようとする試みが、言語である。
http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20080613

 一行の文章をなにげなく発するときその一瞬の中に〈無数の「解釈から表現へ」のろ過作業〉がつねに行われている、と知ることは恐ろしいことであると同時に嬉しいことでもあろう。何が嬉しいのかは不明だが自覚できないものを肯定できないと失語症になってしまう。(ナルシストの論理)
 そしてわたしは肉体でもあり「あらわされた言葉は肉体にかえって、またろ過される。吟味され、確認され推考され、またあらわされる。」確かにその通りだ。いま何故か「園と檻」と変換されたのだが、わたしがわたしと書き付けるときそれまで存在しなかった檻を常に作成してしまっている、という面があるような気がする。わたしというものは常に肉体(ダイナミズム)に開かれているのにそれを恐怖し檻に入れることにより自我が確立されるといった構図。