松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしたちが自明としていたもののうちに

「そのような個所は驚くべき数に上り……」というフレーズは大げさ過ぎるようにも思ったがそうではなく、実は何かひどく大事な事を暗示しているのではないか、と思い始めている。
わたしたちの生や交渉は多くのものを前提としている。自覚されずそれが問題であるとは気付かれない膨大な前提。しかしあるきっかけで「それがそうでなければならない必然性はない」ことに気づくと、同時に「そのような個所は驚くべき数に上る」ことにも気づかされる。ある無自覚がひとつだけならそれを問題として克服していくこともできるが、無自覚は常にゼロであるかさもなければ膨大過ぎてわたしたちは解決に近づけない。


「あ=あ」といったシンプルな等式に基づいて世界は構成されているかのようにわたしたちは思っている。「あ=あ」というようなレベルにおりていこうとするとどうか。あるそれほど複雑でないドイツ語の文章は訳者によって必ず違った日本文に翻訳される。翻訳は可能であると同時に不可能である。
 また「万葉仮名ジェネレータ」の場合。"か"=>"可","き"=>"貴","く"=>"久",
というように1対1の原理に基づき「翻訳」をしている。3種類のそれを例示したがいづれも同じ構造である。しかし実際に使われた万葉仮名はそれとは似ても似つかぬものだ(万葉集の場合だけでなく模倣である宣長の場合も)。
わたしたちの世界の根拠には「あ=あ」といった自明性が存在する。しかしその「あ=あ」は(数学的な比喩を使えば)不能または不定であり解を持たない。しかしそのことは、世界が別様にありえることを力強く立証しているのでありわたしたちに希望をこそあたえるものであるはずだ。