松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

特定の物語を信じないこと

抜き書きされた東浩紀の言説。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201796826より

右翼も左翼もなんらかの物語を信じている。しかし、そういう立場は、ちょっと考えるとなかなか取れなくなる。というのも、だいたい人間の思想なんて歴史的に反復されているし、どの時代をとってもいろいろな立場があって、似たような論争が繰り返されていることがすぐわかるからだ。

したがって、あるていど頭のいいひとは、特定の物語を信じず、諸物語の「均衡」を目指すことになる。これは保守の立場に近づく(ちなみに右翼と保守は違う)。ぼくが「ポストモダン」とか呼んでいるのもこの立場だ。ぼくのポストモダン観はそういう意味ではきわめて保守主義的だ。

ところで、そういう「均衡」を目指す立場は、原理的に伝統を尊重することになる。なぜかといえば、なにも特定の物語を信じなくても、とりあえず「この社会」がいままで続いてきたという事実性だけは脱イデオロギー的に確保できるからだ。というか、なにも物語を信じないのであれば、それぐらいしか最終的によりどころがない。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html

おそらく、ぼくが採りたいのは、イデオロギーなき革新というか、物語なき進歩主義の立場なのだ。つまり、世の中は変わっていると考え、その変化を基本的に肯定するが、しかし特定の物語は信じず、「諸物語の均衡」にこそ支点を見出すという立場だ。

しかし、そんな立場は可能なのか。どうも難しい。そこで考えられたのが、ニヒル唯物論というか、技術決定主義というか、つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。どうも、ここ数年、ぼくがリバタリアニズムがどうとか、ポストモダンの二層構造がどうとか言っていたことの根源は、そういうことにあるような気がする。

参考:http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html
http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

「諸物語の「均衡」を目指す」と東は言っているが、空語だろう。なにも物語を信じない場合よりどころ、最終審級になるのは、自らのオタク的身体感覚の肯定しかありえない。これは政治的、社会的命題の一切を、自己を倫理的に脅かす物として排除する態度に帰結する。