松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

世界は語りうるものではない

 戦争はある朝、突然やってきた。戦争開始の発表があったのは、一九八〇年九月二十三日、学校や大学の新学期がはじまる前日のことだった。すべてはいともあっさりはじまった。ニュースキャスターは、誕生や死を告げるように淡々と事実を発表し、私たちはそれを取り返しのつかない事実として−−今後つねに考慮に入れるざるをえず、徐々に生活の隅々にまで浸透してゆく事実として受け止めた。この予期せぬ決定的瞬間に当たる出来事が、この世にどれだけ存在するだろうか。それは朝起きたら、自分ではどうにもならない力によって人生が永久に変えられてしまったことを知る瞬間である。
 戦争の引き金は何だったのか。新しく登場したイスラーム革命派の傲慢な態度だろうか。彼らは中東において反動的で異端であると見なした体制を挑発しつづけ、それらの国の人々に蜂起を呼びかけていた。それとも国外追放されたアーヤトッラー・ホメイニーを、噂ではシャーとの密約によりイラクより追放したサッダーム・フセインに対し、イラン新体制が特に敵意を燃やしていたからだろうか。あるいは、古くからのイラン・イラク間の敵愾心に加え、イラクがイランの革命政権を敵視する欧米から支援を約束され、速やかな勝利を夢見たからだろうか。
 過去をふりかえって、歴史的な事件をまとめ、分析、分類して論文や書物にすると、当初の無秩序は消え失せ、それらの事件は、当時の人が決して感じたことのない論理と明晰さを獲得する。だが私にとっても、何百万ものふつうのイラン人にとっても、あの戦争は、穏やかな秋の朝にいきなりやってきた、予想外の忌まわしい出来事、まったくばかげた事件にほかならなかった。
P218 アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』isbn:4560027544