松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

教育基本法ゲーム

 今日はちょっとしたサロンに行って来た。帰って、息子二人に「宿題のない学校とテストのない学校、どっちが良い?」と聞いてみた。息子たちは「何でそんなこと聞くん」と警戒してなかなか答えてくれない。結果上の子はテストがない方を選び、下の子は答えなかった。
 今日の話し合いでは、大人(高齢者も多し)がそういう話をしていたよ。いま教育基本法を変えるという話を国会でしている。もしあなたが文部大臣だったらどんな学校制度を作るか言ってごらん。とか言ってみた。
 民主主義でありみんな発言は自由なのに結局わたしたちも、「教育基本法改正反対」とかそういった平板な議論になってしまう。そればかりか一般の人々は自分が言論するという自由をもっているとすら意識しない。それは一般の人々が馬鹿なんじゃなくてまあ日本に民主主義がないという事実を大人はよく知っているというだけのことなのだが。でも何かいうとそんなことは予算的に無理でしょう(今の時勢で教育予算増額は無理)とかいう反応だけは返ってくる。
無理という当局側の主張が、ニュートラルでリアルな現状認識として浸透している。それはよく考えると少しづつごまかされているのだ。予算的に無理というのは他のことよりそれを優先しないという一つの教育制度観の提示として、そこにあるはずなのにそのようにはけっして言われない。

 そこで原点に戻り、各自がそれぞれ自分の好きな教育基本法を書いてみよう!それでそれらを持ち寄ってみんなでわいわい議論しよう。今日の「サロン」はそうした集まりだったのだろうか。討論の資料として配られたのはすでに下ごしらえされた一種類だったが。
 学生が一番気になる、宿題とテストについては原案はこうなっていた。

27.学校は、原則として学習者が望まない限り宿題をだしてはいけない。
28.テストは本来、学習がどれだけ身に付いたかを確かめるためにおこなうものである。他人と比較するためのテストや成績序列評価はしない。

最初27の「学校は」を「教員は」に変えた方が良いのでは?という意見が出た。
 また5.では現行633制を、644制にするという提言。現行12年を14年に延長するわけで、延長には一緒に行った友人はかなり反対していた。わたしも反対。

10.学校は画一的でなく、自由で活気と創造性と助け合いに満ちた雰囲気をもち、人間的なふれあいの可能な少人数からなる事を理想とする。よって、1クラスの人数は20人以下を基本とする。

 たとえば共産党も30人学級とかを主張しているわけだが、息子にだいぶ前聞いてみたら40人前後の現行で良いという返事だった。生徒にとっては教師は管理者であり多人数の方が注意が行き届きにくくラッキーという感じだろう。それを聞いてちょっと目を開かされた気がしていたので、こうした条文はどうだろうなと思ってしまう。もちろん自由で上手くいっている学級ならいいがそんな学級ばかりということはありえない。わたしだったら、クラス人数は40人前後、その代わり週3日はインターネット授業とかの方が良いかな。

 言ってみるだけとは言っても、これは真面目な「政策提言」である。無責任な言説はよくない。とは言っても立派な民主主義の下で60年過ごしたはずのわたしたちはなぜみんなそろいもそろって負け犬根性だけを身につけているのか。空しくない言説は原理的に可能な筈である。

最後にこの政策提言の最初と最後だけ抜き出しておく。

1.教育は憲法26条に明確に規定されているように、市民の権利であって、義務ではない。社会と国とは、その権利の行使を、法制度を含め、全力を挙げて支える。「義務教育」は正しくは「権利教育」であり、その認識を基本において、市民の権利として教育をとらえる。

35.市民は学校へ行く権利とともに学校へ行かない権利をも持つ。学校へ行かなくとも学習する権利が保障されるように、保護者・国・社会は、法制度を含めて、全力を挙げて支え、学校に行かないことで不利益が生じないようにしなければならない。