松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

魂を殺すことのできない者ども

からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
マタイ10:28

東大闘争の時に学生たちがこれを、大学の壁に書き付けた。そのことから滝沢は語り始める。そして

むしろ、魂もからだも地獄*1で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

という文(その文章の後半)が抜けていることの意味を考察する。*2
前者だけだと身体より魂の方が大事とする二元論になる。そうしたものは結局「理想主義的熱狂」にすぎないのではないか。と滝沢は指摘する。

 それは、やはり、人間というもの、本当に自分というものがすっかりなくなるところまで、なくならないと駄目だ、ということは知っていたわけですね。
 自己否定というようなことを言って、自分というものがすっかり消えてしまわないというと、本当のことはできないという、そういう感覚はあったのですから、いわゆる精神主義的にやっていたわけでもないのです。
 しかし、本当に自分というものが消える所、わたしがわたしだけれども、絶対わたしでないものと繋がっていて、結びついていて、そこにわたしの生命の始めがある。
(P97 同書)

(という認識までは獲得できなかった)と滝沢は言いたいようだ。
身体とは物である。「物でありながら選んだり作ったり考えたりするのです。」「だからそういうものが人間の身体で、その他に人間の魂というものがあるわけではないです。p98」と滝沢は二元論に反対する。イエスが十字架から肉として甦(よみがえ)ったのは、そうした真理を示しているという考えだ。これは重要な論点なのでしょうが力量がないのでここでは扱いません。
 さすが滝沢克己である。大学闘争の側に立って闘争者の不十分性を指摘しているのだが、その前に「自己否定」の思想の普遍性を確認している。聖書などを勉強する果てに神があるのではなく、闘争の渦中のどうしようもなさ、みたいなところにかえって神は目に見えなくともたたずんでいる、みたいな把握は本質的であろう。
「魂を滅ぼす力あるもの」とは何か? 現在魂という言葉は死語になったかのように感じられる。「魂を生かす力あるもの」とは何か?何不自由ない暮らしの中で人が生きる気力を失わないためには、何が必要なのか? ポストモダニズムが愛や正義を否定したとすればその否定はやはりまずかっただろう。現実を考えるならそこには闘争が必要であり、そのためには「正義」という言葉も必要である。「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者ども」がのさばっているが、恐れる必要はない。「鳩のごとく素直に」立ち向かえば良いのだ。

*1:ゲヘナ

*2:p94〜