松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

サイードとは?

エドワード・W・サイード(إدوارد سعيد Edward W Said, 1935年11月1日 - 2003年9月25日)は、パレスチナアメリカ人の文学研究者、文学批評家。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%89
エドワード・サイード - Wikipedia

中野真紀子さんの下記サイトから
http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/home.html
Edward W. Said Index−  ペンと剣  − 
「凱旋の集いには、すべての者を招く余地がある」
(頁ごとのurlがでないのでtopから順に辿ってください。)
このサイトにはサイード自身のものを含めたたくさんの有益な翻訳があります。読みましょう。

(質問)バーサミアン: パレスチナ問題のいま一つの隠れた側面は、パレスチナ運動のなかでキリスト教徒が占める位置の問題です。あなた自身がキリスト教徒ですし、ほかにもジョルジュ・ハバシュ George Habash やナイエフ・ハワートメ Nayef Hawatmeh などがいます。間違っていれば訂正していただきたいのですが、パレスチナナショナリズム運動の最前線に立つ人々のなかには、大学教授、建築家、医師など、キリスト教徒の家庭で育った人々の割合が不釣り合いに多いようです。これはなぜなのでしょう。

僕の感覚では、キリスト教徒であってもイスラム教徒であっても解放運動にかかわるのはごく自然なことです。もしパレスチナキリスト教徒であることに何か特別の意味があるとすれば、それは、キリスト教徒が何世紀にもわたってパレスチナに住み、そこに属してきたことを、僕らの多くがとても誇りにしているということに他なりません。ここから必然的に、民族共同体のなかで積極的に行動するという特別な義務を背負うことになります。僕らはみな、そう感じていると思います。僕はこの闘争に何年もかかわってきました。僕の親族も多くかかわってきましたし、あなたがいま取りあげた人々はみな僕の知り合いです。

僕らのなかに、多数派から差別されているという気持ちを少しでも抱いている者はいません。この点について最後に指摘しておきたいのは、アラブ世界における多数派と少数派の関係は、欧米人にはそう簡単には理解できないということです。彼らはつねに、人種差別や抑圧された少数派に対する差別という西洋のカテゴリーのなかで考えてしまいます。でも、アラブ世界では、彼等の尺度はあてはまらないのです。僕はなにも、アラブ世界では少数派が常に夢みたいによい暮らしをし、抑圧されたことは一度もないなどと言ってるわけではありません。抑圧されたこともありました。けれど、普段の両者の関係は、西洋における多数派と少数派の間に見られるような、つねに不安にとりつかれ緊張をはらんだ関係よりはずっと健全で、自然で、気楽なものだったと僕は思っています。