松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「吊るし上げ」とは何か?

浅間山荘、セクト同士の殺し合い、思想の異る者同士の争い、危険分子と見做した者への吊るし上げ。こういう光景は彼らの思想がいかに正しくとも、その手法において、彼らに恐怖した。それは子供心に恐ろしい光景であり、また最終的に軽蔑することになる。彼らの主張、論などどうでもよくなった。いくら口で素晴らしいことを言っていても行いにおいて目の前にいる人間に対する一方的なその扱いにおいて信頼出来ない人間のいうことなど誰が信じることが出来るであろうか。
中世のカトリック教会における「異端審問」の光景が記録に残る。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20060312/1142135919

理想の思想を語る過程で、なりふりかまわず一方的なレッテル貼りなどするという、他者を踏みにじるようなことをしてもいいものか?などと私などは思う。(同上)

彼/彼女の主張は実は大切なことなのかもしれない。と振り返ることは可能でもある。それに同調はしなくとも、少なくとも「そのような考えがある」ことを理解する。
まったく同じ価値でなくてはならないなどと言うのはおこがましい。しかし理解を互いが深める為には自分自身がしがみついている価値をまず疑ってかかる必要もあるなどと思うのです。対話というのはお互いが歩み寄ってはじまるものでもある。相手を屈伏させるというのは恨みと対立しか生まないだろうと思う。(同上)

以上は、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060311#p3
に書いた、野原のま・ここっと発言批判への批判でしょうか?
「パレの暗殺ターゲットになっています。」発言を撤回せよ!、と野原はま・ここっと氏に対して求めています。それに対して「撤回せよ!」とかいうその怒鳴り声がどうも苦手! とか言うわけでしょうか。

そう評するだけに足る情報、もしくは確証がある場合、それについて反論をしてゆくのが有益であり、「論者がどうであるか?」などという話などにはまったく興味はありませんです。ここ、もしくは私のブログのコメント欄に書かれた文字情報のみで判断でき得る「情報乃至、論がどうであるか?」が重要なのではないでしょうか?(antonian)

発言に反し、怒鳴ったか怒鳴っていないかみたいな別のレベル*1に、論をずらすおつもりですか?
「一方的なレッテル貼りなどするという、他者を踏みにじるようなことをしてもいいものか?」は、ま・ここっと非難になりうるものだが、antonianさんにおいてはそうは考えられていないようだ(それともそうではないのか?)

*1:レベルにはなりえないと思うが