松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

誰のための審議会の要請?

国際的な舞台では、パレスチナ人が語ろうとするたびに−(略)、組織的な攻撃を受けるのです。(略)
テレビ映画やドキュメンタリー番組となると、いつだって「審議会(パネル」が必要だということになるのです。(略)
数週間前に、ボストンのインスティチュート・フォア・コンテンポラリー・アートで、パレスチナの近況を扱ったヴィデオ・ドキュメンタリー・シリーズが上映されました。でも、この上映には横槍が入って、「反対の側」からの代表を含めたパネルを設けない限り、企画は中止だというのです。
要するに、僕たちはいつも「反対の側」の反対側なのです。(略)
このことによって、パレスチナ人という存在は一貫性を欠き、人間らしくないという印象が生じます。しっかりした歴史を持ったひとつの民ではないと思われてしまうのです。
p67サイード『ペンと剣』

 中立性公平性がどこにあるのかを求めるものが審議会である、というのが建前であるが、実際にはある公演企画を遅延させ、ついには中止させようとする意図の元に審議会が要請されるわけだ。
イードの文章は1991年と15年前だが、下記に引用したように現在も同じ状況は反復されている。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060303#p2
「上のま・ここっと発言は、事実に反する悪質なデマゴギーであると判断する」というのは、野原からの(公正な)審議会要請であるとも、言える。
それに対するantonianさん、fenestraeさんの反応は、野原から見た場合おかしなものである。「上のま・ここっと発言は、事実に反する悪質なデマゴギーである」という命題自体には反論しない。

彼/彼女の主張は実は大切なことなのかもしれない。と振り返ることは可能でもある。それに同調はしなくとも、少なくとも「そのような考えがある」ことを理解する。

何度考えようが、上記4行のま・ここっと発言にあるものは、レイシズム、つまりパレスチナ=暗殺者という偏見を強化しそれにのっとってイスラエルを弁護したい以外の何ものでもない。
それ以上に理解しにくいのがfenestraeさん。

ある記事を取り上げて「誰か代わりに反論してくれないか」という誘いがあり、そして「この人はこんなことも書いている」とんでもない人だという「通報」があり、論者どうしうなづきあいながら、そしてほとんど本人がこられなくなるような中での議論、怖くないですか。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20060309#c

fenestraeさんは上の4行を、レイシズムと思うのか思わないのかどっちなのだろう?前者なら「うなずきあい」糾弾するのは、当然であろう。


で、id:antonianさんもid:fenestraeさんも、どのような思いでそれを行ったのかは別にして、反イスラエル言説に抵抗を掛けるという効果において「審議会」として登場している、ということを指摘したいわけです。
(3/16記)