松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

 それとともに、戸田氏は刑事被告人であることにより、サバルタンである。(一方わたし野原は観察者(記述者)である限りにおいてサバルタンではない。)
彼のサバルタン性は二重に現れる。ひとつはマスコミにおいて、彼が刑事被告人=悪党という枠組みにおいて表象されるということ。彼がある発言をしたとして、それの発言はどうせ悪人(かもしれない人)が言ったこととして取り合ってもらえない可能性が強い。もう一つは、彼が自分の意見を文書などの形で公表していくことに対する絶えざる抑圧が存在する点である。「実際に書き物ができるのは、1日のうち1〜2時間だけ(略)。しかも、うるさくがなりたてる場内ラジオに気を散らされ、机もなくて、膝の上に用紙を置いて」といった劣悪な環境下で思考〜表現することを強いられる。彼はその困難をはねのけ、下記のような議員としての仕事(表現)を立派に成し遂げているが、私のような凡人だったらとうてい無理だっただろう。
http://hige.s149.xrea.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=524;id= 
 そのように彼は、議員という特権的表現者から、サバルタン表現者という二面性を持つものへ転位した。
"Can the Subaltern Speak?"(G.C.Spivak) から  "Let the Subaltern Speak."(Paddy Ladd)へ!
 というスローガンはそれだけ見ると矛盾していて馬鹿っぽく思えるがそうではない。サバルタンの本質にはわたしたちは自由に近づけない。したがってわたしたちができることはまず二面的表現者の発言を聞くこと。そして、矛盾を内包した二面的表現者の存在のあり方を追体験してみなければならない。わたしたちは自由な自立した表現者でなく、「一方の文化秩序を他方の従属的集団に押しつけようとする不平等な権力関係」*1のなかで思考〜表現したつもりになっているにすぎないのだから。