松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

表現過程としての被拘束空間(序)(前半)

 以上のような被拘束空間における表現という問題を考察するため、の資料として(松下昇氏の)次のような文章を掲載する。
 わたしたちは被拘束空間に居ないとしてもなお、意外なほど狭い領域に拘束されているのではないか。そうだとすれば下記は見かけほど特殊なテーマを扱ったものではないことになる。

表現過程としての被拘束空間(序)

 このヴィジョンは、被拘束の全過程が、それ自体として現情況のさまざまのテーマ群を基底からとらえかえす表現位相をもつという情念と、被拘束空間における多くの体験の具体例を表現という視点で総体的に把握したいという情念の二つの流れによって渦巻いている。それらが一定の構成として視えてくるまで待つことが何かから許されない気がするので、まず意識から言葉へ突出してくるものから順に、手あたり次第に、いくつかを記してみよう。

 拘束の瞬間から、身につけている文書や、とどけられる文書、発信する文書は全て検閲される。私や私の共闘者の文書はよみにくく、内容も意味不明で大いに不評であった。しかし、私に好評であった私のみる〈夢〉や、毎朝きく〈鳥〉の声は検閲されなかった。

 法廷へ行く場合には、前日朝に携行する予定の文書を全て提出しなければならない。従って、公判の前日の朝から公判の開始時までは、文書に関する限り、だれよりも公判から遠い。この遠さは苦痛であるが、時々思いがけない発見をもさせてくれた。

 独房内では、パンフ十種類を十日以内、ノート三冊(プラス・アルファ)を絶えまない検関でうばい去られつつ使用できるだけである。共闘者から資料の入った手紙がとどくと、うれしいけれども、その瞬間に、房内にあるパンフ(たとえ一枚のビラ、一枚のコピーでもパンフとみなされる。)一部ないし全部を強制的に領置(どこかの倉庫の個人用の棚へ入れておくこと)させられる、という哀惜と怒りの念もわいてくる。前項と共に、いつでも、あらゆる文書を手にしつつ思索〜準傭できるのとは全く逆の条件下におかれるのである。この規制は特に東京拘置所において強化の一途をたどりつつある。しかし、この状況を一つの表現の方法として逆用してたたかうこともできた。

 拘置所では、入ってからすぐに「裁判所への文書提出のため」と要求すれば、翌日ぐらいに筆記用具を手にし、自分用のメモを含めて何でもかくことができるが、讐視庁本部の留置場では全く禁止されていた。辛うじて身体的自己診断書をかくという名目で、それも取調中の刑事たちの休憩中にという制約下で歯やせき椎の苦痛に耐えつつ二枚のメモを作成し、警察官、検察官の検闘をくぐって外へ出すことができたが、この紙片の中に〈身体〉だけではない諸関係の〈診断〉をこめようとする苦闘としても印象に残っている。なお、権力の手の中にある病院の<治療>は症状を悪化させるだけであった。

 拘留中の発信や面会は原則として一日一回(監置中は十日に一回、親族とのみ。服役すると更に制限される。)であり拘束施設の判断で存在を告知されることさえない場合もあった。一例として、一九八四年一二月三一日に、「カッコ」(〈 〉)とか「星雲の位相」という表現を含む電報が外から私へうたれたが、当局は、これを理解できないため暗号とみなし、出所時まで、電報があったことさえかくしていた。かりにn年間拘束されていれば、n年先まで判らなかったのである。私の場合は一週間後に監置二○日の拘束期限が終り、一月六日朝の出所時に告知されたが、直後に予定されている令状逮捕の瞬間が迫っていたためか、係官は内容を殆どみせないまま書類袋の中へデタラメに入れ、封印して持たせ、逮捕現場へ急がせた。逮捕後の警視庁本部では書類などみせなかったから、私がこの電報のコピー(なぜか原本ではない)に出会ったのは、起訴後再び拘置所へ送られ、再入所時の物品検査を応用して電報を判りやすい所へ移動し、舎下げしてもらってからである。

 拘置所では朝の点検の後で、「ネガイゴト!」と叫びながら看守が巡回してくる。シャバの水準からみると、いささか、こっけいであるが、被収容者にとっては、必死の「願い事」の恩恵のときである。何しろ、釈放せよとかラーメンをくわせろという要求は別として、前述の領置(宅下げの前にも必要)、舎下げ(さし入れなどを房に入れてもらう。大阪では仮出しという。本来は倉庫に入れておくべき、という発想からであろう。)などは多分、数日後には(!)七夕の願い事以上に(?)かなえられる。この“数日後”という時間性に注意していただきたい。そして、前述の領置や舎下げは、毎日出来るわけではないことにも。(大阪では、一日おきに領置と仮出しの日が決められ、予告なしに二日続けて、どちらかが連続することもあるので、特に下着の移動の場合、身体の新陳代謝等との関連で問題が深刻になった。これは食物や文書などの到着のおくれに匹敵する、あるいはそれ以上の表現時間性のズレのテーマである。)

 看守(法務省刑務官)らは、大まじめで「願い事(はないか!)」と怒鳴り、被拘束者も大まじめで「願い事があります!」と答えて願箋をうけとり、記入,提出する。しかしこの「大まじめさ」が、ふと崩れる瞬間もある。法的許容度をこえる要求を出した時と、被拘束者が「大まじめ」のばかばかしさを言葉でなく内容として展開した時である。それぞれ、いくつかの体験があるが、後者の一例を上げると、拘置所では、検閲の関係上、日本語以外の文書は、さし入れを禁じられている。私のところへ翻訳依頼の外国語の原文が数十枚送られた時、当局は、この規則をタテに房へとどけなかった。私は、とどけるよう何度か「願い事」をしたが、当局の回答は一枚三千円で拘置所指定の翻訳者にたのめば、訳したものと併合してとどけるというのである。私の場合、一枚五百円というのに! のみならず、私が翻訳する場合にこそ意味があるのに!これらのことを拘置所長との面接を含めて「願い事」した時、何回目かに規則のロボットのような看守は笑い出し、何とかしてみる、といって立ち去った。所長との自主ゼミや〜を辞さない、こちらの構えに、問題の拡大を怖れる配慮もあったのかも知れないが、その日の午後に翻訳用原文はとどいた。それにしても文書の制限や抹消を、勾留を医学的に? 根拠づけることを職務とする拘置所の医療と共に批判し対象としていかねばならない。もちろん〈外〉国語もちこみの前例の応用〜拡大もやっていきたい。

p31-32『時の楔通信 第〈12〉号』(1985・8)*1

*1:松下 昇〜未宇を含む時の楔通信発行委員会